FBI心理分析官がベストセラーだったこともあった

実在の事件と作品モチーフが偶然被ることについて……
意図的に、実在の事件に材を取った場合ではない。
偶然被った場合だ。若干身に覚えがなくはないです。
同時代にいれば、strangeな/人生=アウトサイドアートな人とも考えが被るところがあって当たり前で(もちろんこちらの想像もつかないことを考えている人がいる/意識のあり方みたいなの自体が違うかもしれない、くらいのSFマインド? をなくすのはいやだ)、創作とかするような人は、別に自分に限らず何かの予兆みたいなのが多少読めてしまうのではないかと都合良く考えてましたけど、現実の事件に負けない/実際やってしまった奴に勝つのは大変である。
虚構は『決して』現実の事件に勝てない(この『勝てない』というのは何が基準なんだ? 端で見ている傍観者をどれほど打ちのめすかという意味か? 何か絶対的な基準があることを、アートとして凄い的な基準があることをどうも私は夢見ているのか。でも事件はアートじゃないですよ)という意見には賛成しかねるのだが、
何だろ、大抵こちらが見ているのは「現実事件の報道」であって、現実事件じゃない。
「報道」には「虚構」が(端で見ている傍観者をどれほど打ちのめすかという意味に於いて)勝てるかもしれないけど、
自分が、実際、事件とか災害とか抗争とかに巻き込まれたり何か「やってしまったり」した場合、虚構どころじゃないだろうと思うが、しばらくたったらそれすらネタにするようになったりするんだろうかそれはダメージの受け方の程度の問題のような気がする。軽い事故とか事件は、もちろん平気でねたにしました。何か実生活でバタバタして参っていたとき、それでも無理に時間を作って少しずつでも書き続ければ、書くこと自体が救いになるよと、言ってくれた方には大変感謝している。それが本当だかよくわからないが、その言葉のおかげで凹みバタバタ時期にもぬけぬけと書いていたから、その言葉が、言った人の人柄とかにも寄り場合によりけりだろうが、実効性もないことはない、のだろう。
でも、「私は実は小説を書いている」という事柄を持って、小説の内容とは無関係に、『小説書いてる=インテリゲンチ』ャという現在では既にまったく成立していない概念を思い出し、それを支えにするっていうんじゃいけないよ。いや、精神安定的にはそれで安定できればそれでいいんだろうか。溺れる者は何でも掴む。

自分の小説じゃないけど、まだこの本とかあの本とかがあると、思えたこともあった。それは本当に助かった。
なのだが、本当に決定的に酷い目に遭って……あるいはやってしまってという可能性もないとは言えない……破壊されてしまったらどうなるんだろう。
私が興味があるのは結局それなのか。っていうか何でそんなことに興味があるんだ。

ポール・ボウルズの『シェルタリング・スカイ』は近代西洋文明人の夫婦が彼らの領域を踏み越えてしまったために崩壊していく話だった。時々思い出す。
---
ブログ内容とほとんど関係がなかった。
『FBI心理分析官―異常殺人者たちの素顔に迫る衝撃の手記』

トラックバック(0)

このブログ記事を参照しているブログ一覧: FBI心理分析官がベストセラーだったこともあった

このブログ記事に対するトラックバックURL: http://dluv.velvet.jp/cgi/mt/mt-tb.cgi/37

このブログ記事について

このページは、間瀬純子が2007年1月14日 06:58に書いたブログ記事です。

ひとつ前のブログ記事は「謹賀新年2007 何の整合性もない心情」です。

次のブログ記事は「自由モグ権運動」です。

最近のコンテンツはインデックスページで見られます。過去に書かれたものはアーカイブのページで見られます。

Powered by Movable Type 4.01