時間を支配したいんでしょうか

大昔は『テレビっ子(死語?)』だったのだが、
段々テレビが不愉快になっていった。
それは
ばかばか入ってくる情報が
私には処理できないほど多すぎて
どうしていいかわからず途方に暮れるというのもあるんだけど、
テレビの人々が喋っている言葉が聞き取れず、
雑音にしか聞こえず、
不愉快だった。
聴力に問題があるのではなく(あるかもしれない)、
テレビの人々の喋る早さについて行けないのだ。
そういえば、映画においても似たような経験がある。
洋画に比べ、邦画をあまり見なかった。
俳優さんたちが、
わたしのネイティブ言語である日本語を喋ってくれる邦画では、
セリフやナレーションが聞き取れない。
しかし洋画には字幕がついていて、
字幕を読むほうが楽だった。(文字を読むのは早かったんだろう)
調子いいときは、テレビ番組も聞き取れる。
テレビを見る人々は、
テレビの人の話す言葉の早さに合わせ、各自で
時間感覚をコントロールするのか、
そうしてテレビは、
共通の時間流れ感覚……一日のリズム感みたいな……を
身につけさせるものになっていったのだろうかと、思ってみたりした。
それが年々早くなっていって、
もうさらに、時間の流れ方見本は既に、
テレビではなくなっているのか。
(ここから先の人間の時間流はソラリスの海に流れ込んで行方不明)

わたしの自然の体内リズムは 30時間くらいに違いない。と、時々思う。

こういうことは、現代人失格の無能な感じ満載で、
人には言いづらいですね。

ちょっと話が飛ぶ。
わたしが、何かを語る手段として、
小説を選んだのは、もちろん色んな理由があるけれど、
小説が時間芸術であることが大きいんじゃないか。
かつて、どこに行っても遅刻の女王であり、
いつも『他の誰かが管理する時間』に、ついて行けなかった自分であるのに、
小説内では時間を支配できるのですよ。
小説内時間をコントロールできる、一作中で、過去を語り未来も語り、語りを早くして時間の流れを速め、その逆も出来、というのが、途轍もなく魅力的だったのではないか。
小説内時間をうまくコントロールするには技術が必要で、
そのための技術を身につける/開発している/とは言えないのではあるが。

テレビにはついていけないわたしであるにもかかわらず、

atokの素晴らしい漢字変換機能に慣れてしまっており、
タッチタイピングのスピードで文が書けないと満足できないのか
手書きで字を書く機会も結構多いんですが、
例えば『結構』なんて簡単な熟語を書こうとして、
「いとへん」書いたあと「吉」も、「木へん」も飛ばし、もう「構」の右側、旁(つくり)の部分を
書いてしまっていたりする。IT呆けってこれっすか。

こういうとこは現代人か。

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このページは、間瀬純子が2006年12月 1日 02:40に書いたブログ記事です。

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