2006年12月アーカイブ
ご自宅『ルミナリエ』(註:ルミナリエは冬の神戸の行事。繁華街に高さ数メートルの枠に装飾模様つくって、電気つけて光らすらしい。神戸に5年いるが、一度も見たことがない。自宅に電飾つけて光らせている家を、わたしは勝手に『ご自宅ルミナリエ』と呼んでいる)が、今年は少ない気がする。でも近所の、アウトサイダーアート・ご自宅・ルミナリエのお宅は、今年もますます頑張っている。
以前、『小説JUNE』という雑誌に何度か中編小説を載せていただいた。小説JUNEは数年前に休刊し、このブログを小説JUNE経由で読んでくださる方が果たしてどれほどいらっしゃるのか謎ではある。
小説JUNEは二十五年余続いた。わたしは、そのうち何十冊読んだだろう。
雑誌に掲載されていた小説and漫画の中で、
印象に残る作を描かれていた方に諫山日向子氏という方がおられた。漫画の方である。
JUNE掲載といっても、女性向けのドリーム男性同性愛が性愛込みで露骨に描かれた作ではない。
ご本人のホームページに偶然遭遇しました。
小説JUNEに掲載されていた諫山氏の『黄金の脳』はこんな話だった。
嫌な状況の日常にあって、段々現実感を失っていく少年が主人公である。
自分の状況(現実)が事実としてあり、そこから自分の現実感覚を遊離させる不安定な状態で、彼の『脳内my現実』はただただどんよりした幻覚状の混濁となっていくのみ。
だが、『嫌な状況』と繋がっている『現実』の中で、主人公は、きれいな輝く他者と遭遇することによって、『歪んでしまったmy現実』と『嫌な状況』を超越した開放感・幸福感を味わう。わたしはこの話を、そのような物語だと受け取った。
多分、主人公の少年は、その『きれいな他者in現実』との遭遇によって、どんより状態のmy現実から抜けだし、さらに別の、前よりずっと良いmy現実を作っていくのだろう。
こういうふうにまとめてしまうと、『見方を変えればこの世はハッピー/住めば都』とか、自己変革セミナーみたいだけど、この漫画では、
そういう「my現実を変化させその結果、素晴らしい実利的な幸福を得る」が描かれているわけではなく、
むしろ、表されていたのは、
たまたま遭遇したきれいな瞬間、という幸福じゃないか。
というか「どんより→きれいな瞬間」という移動が魅力であり、どちらがなくても成り立たない。
実際、そういう幸福な瞬間はある。空き地を覗いたら隣家との塀の上に、数十センチの間隔を置いて、そっくりの顔格好の、太った大きな白猫が二匹、全く同じ『箱座り』状態で(前脚を折りたたんで座る。すぐには逃げたり攻撃したり出来ないポーズであるから、リラックスしているんだろう)、といった、見たからといって何の役にも立たないけれど、一瞬非常にラッキーで嬉しい気分になる「遭遇」はある。わたしの場合、その幸福感はすぐに暗黒思考に飲み込まれていくのだが。
諫山氏のサイトに新たにアップされていた漫画「センチメンタルシティ」も読みました。
主人公の少年の、日常の意識からちょっと外れた、彼一人のダークな物思いの底の寂しい次元が描かれ、でもその寂しい次元でこそ、誰か、共振できる人に繋がって欲しいという願いがあり、また、漫画の主人公は実際に、共振出来そうな相手とかすかに遭遇するのだけれど、その遭遇の、美しさ優しさ切なさ、忘れないようにしなければすぐに消えていくかもしれない不安さ、etc.が複合していた。
今年最後のブログです。
良いお年を。
寒い。寒いじゃないですか。
先日、
この記事で書いていた、英国のミュージシャン、Mr.Luke Hainesの新譜
"Off My Rocker At the Art School Bop"
が届きました。
わたしは、Mr.Luke Hainesのtragic rock'n'rollな部分と
何度聞いても飽きない抜群の耐久性、
及び、
引きづり込まれる感じ、に惹かれていましたわけです。
新譜一聴した感想、
今回はtragic rock'n'rollではないようだ。
英国ロックンロールだ。結構、テンション高いロックンロールな曲も
ありますよ。一瞬途方に暮れた。
わたしが彼の音楽に求めていたのはtragic rock'n'rollで、
それを止めたら、離れていくお客さんもいると予想されるが、
敢えてそうじゃない部分も見せるのは博打なのだろうな。
わたしは音楽鑑賞力に優れているわけでもないし、
彼の音楽は「何度も聞く物」だと思うので、一聴で判断できない。
つうか10年以上ファンであると、一枚や二枚、自分好みでなかったからと
言って、逃げられないですよ。購入する余裕がある限り、次も買うだろう。
ああ、全然関係ない方へ行ってしまわれた、と確実に思う時まででしょうか。
今のところ、やはりBGMには向かないとだけ再確認した。
大昔は『テレビっ子(死語?)』だったのだが、
段々テレビが不愉快になっていった。
それは
ばかばか入ってくる情報が
私には処理できないほど多すぎて
どうしていいかわからず途方に暮れるというのもあるんだけど、
テレビの人々が喋っている言葉が聞き取れず、
雑音にしか聞こえず、
不愉快だった。
聴力に問題があるのではなく(あるかもしれない)、
テレビの人々の喋る早さについて行けないのだ。
そういえば、映画においても似たような経験がある。
洋画に比べ、邦画をあまり見なかった。
俳優さんたちが、
わたしのネイティブ言語である日本語を喋ってくれる邦画では、
セリフやナレーションが聞き取れない。
しかし洋画には字幕がついていて、
字幕を読むほうが楽だった。(文字を読むのは早かったんだろう)
調子いいときは、テレビ番組も聞き取れる。
テレビを見る人々は、
テレビの人の話す言葉の早さに合わせ、各自で
時間感覚をコントロールするのか、
そうしてテレビは、
共通の時間流れ感覚……一日のリズム感みたいな……を
身につけさせるものになっていったのだろうかと、思ってみたりした。
それが年々早くなっていって、
もうさらに、時間の流れ方見本は既に、
テレビではなくなっているのか。
(ここから先の人間の時間流はソラリスの海に流れ込んで行方不明)
わたしの自然の体内リズムは 30時間くらいに違いない。と、時々思う。
こういうことは、現代人失格の無能な感じ満載で、
人には言いづらいですね。
ちょっと話が飛ぶ。
わたしが、何かを語る手段として、
小説を選んだのは、もちろん色んな理由があるけれど、
小説が時間芸術であることが大きいんじゃないか。
かつて、どこに行っても遅刻の女王であり、
いつも『他の誰かが管理する時間』に、ついて行けなかった自分であるのに、
小説内では時間を支配できるのですよ。
小説内時間をコントロールできる、一作中で、過去を語り未来も語り、語りを早くして時間の流れを速め、その逆も出来、というのが、途轍もなく魅力的だったのではないか。
小説内時間をうまくコントロールするには技術が必要で、
そのための技術を身につける/開発している/とは言えないのではあるが。
テレビにはついていけないわたしであるにもかかわらず、
atokの素晴らしい漢字変換機能に慣れてしまっており、
タッチタイピングのスピードで文が書けないと満足できないのか
手書きで字を書く機会も結構多いんですが、
例えば『結構』なんて簡単な熟語を書こうとして、
「いとへん」書いたあと「吉」も、「木へん」も飛ばし、もう「構」の右側、旁(つくり)の部分を
書いてしまっていたりする。IT呆けってこれっすか。
こういうとこは現代人か。
