2006年6月アーカイブ

初めてヒトの受精卵の出来方を知った時、
何千個だか何万だか忘れたけれど、大量の精子のうちたった一つが
月一で排出される卵子とくっついてどーのこーので、
それを知った時、わたしは、すごいですねーとは思いましたが、
生命の神秘に打たれるわけでもなく、
『それでなんで寄りによって』と思った、ような気がする。

違う精子で受精していたらわたしは同じ親から生まれても、
その子供がメスであったら今のわたしと同じ名前をつけられたであろうけれど、その同じ名前を持つ『わたし』はやはり自分を『わたし』と呼ぶでしょうが、今『わたし』と書いているわたしとは違う。
とても似ているのでしょうけれど。
まず間違いなく同じ両親から生まれた妹はわたしと、
性質の現れ方・やってることは違うけれど
やはり外見も性質も多少は似てはいるのだ。しかしもちろん妹はわたしではない。
だったらなんでやっぱり「寄りによって」その無数の精子の後に今この文を書いているところのわたしになるわたしがヒットしてしまったんだろうな、
それは単なる自然の必然によるだけの偶然で別に意味はないのだろうが、
ああ死ぬほど青臭いこと書いているなあ。
ここで、どこかから声が聞こえてきます。
『生まれてきたのは偶然で意味はなくてもそれに意味づけしていくのが人生ではないか』とか『あなたよりずっと恵まれない状況にいながら一生懸命生きている人がいるのよ』とか。そういう声が聞こえてくるので余計嫌になります。
いやめんどくさいじゃん。
わたしがわたしだとかそういう自意識が面倒なのですが、

ですから読書は良かったですね、

読書とは、未だ生まれざるいわば未生の生での体験であり、
本の中に没入する間、自らは活字の合間の、生とも死ともつかぬ
夜明けのごとき薄明の境に住むことが可能なのだ。

何ですか上の文体は……。

読書といえば、大昔のように『未生の生:じゃなくて、絶えず文句を言ったりしている自意識から離れた地点』から本内を眺めるような読み方ができることもあるけれど、そうでもないことも多くなりました。
ああ、でも読みたい本がたくさんあるのは良いですね。「何で寄りによって」であっても、一応字が読めるようにしていただいたわけですし、一生に読みたい本を読めるだけ読もう、そうしないと損だから。が当面の望みでした。その望みは別に変わりません。

以前書いた小説で、わたしは、
とてつもなく「夢(妄想)の男」、暗い美青年であり義務的な誘惑者でありロリータの教師でありセクシーな殺人鬼あるいは吸血鬼のような(普通の人間という設定でしたが)、そのような人物を考え、彼をして主人公の少女に問わせています。「君はどうすれば満足する?」

この質問は小説内でなされたものであり、問われたのはヒロインの少女ですが、もしこの質問がわたしにされたらどうしようかと考えてみると、わたしは答えられないのではと思いました。
読みたい本の群れをいけるところまで読み尽くす、が一応の回答ではあり、わたしは多分行けるところまで読んで、そのとき何かわかるのではないかと
期待していた(今でも期待している)
あとは、新宿伊勢丹で100万円買い物したい、とか
その後ついでにもちろん紀伊國屋書店に行って同じ額、
ヨドバシカメラにも。とか、
東北の温泉に行きたいとか。何か滅茶苦茶俗っぽい望みがあるわけですけれど、
万一実現できたとしても、
一定期間大変満足するだろうけれど、
その満足は多分いつか消える。

しかし今日唐突に、長期にわたってはっぴーになる方法を思いついたんだよ。

神社作る。祭神は自分。
わたしの神社で祭られるわたし、ノーベル文学賞もらうより(あり得ないが)、こっちのほうがいいや。このアイディアを思いついて本当に久々に幸せな気分になったのだが、この幸福感をブログ読んでくださる奇特な方に伝えうるでしょうか。というわけで、このサイトのタイトルを『死んだ恋人を捜して』といういかにもなんかわたしは欠落してますーではなく、『間瀬純子オンライン神社』にするのはいやだすごくいやだ。エディタに打っていて字面に恐怖した。

my神社を始めるにあたり、しかるべき届け出が必要なのだろうやはり。許可降りるのか。というか、神体僭称はあまりに図々しくないか。祭られるには、やはり祟りの一発くらいできないといけないんじゃないか。どうやれば祟れるんだろうな。
しかし、ご自宅の敷地や会社の屋上に小さな祠を建てている人たちはたくさんいる。その線でならでき得ることかもしれない。別にわたしはできなくてもできる人じっさいやっておられる人はいっぱいいるだろう。祭ってあるのは自分じゃなくて、ご先祖とか会社の創業者とかだろうけど。
my神社の敷地ーは、友達のT子さんのお宅の屋上で……とか勝手に計画進める。
(できるかわからないが、望みだけ書く)
my神社はやはり土の上が良い。
祠は小さくていいけど鳥居と鈴がないといやだ。ご神体は、ノートパソコンじゃだめですか。
祠の裏にケヤキと桜を植える。祠はホームセンターで材料買って適当に作る。
あと小さな参道に、おみくじと缶ジュースの自販機と灰皿とベンチを置く。中学生が深夜にたまってうるさい。賽銭箱をこじあけるんじゃねーよ。昼間は猫たちが寝ていて、近所の猫おばさんがエサをやりにくる。とても平和です。

祟りができねー代わりに御利益もない。このmini my神社の特異性といったら、お神籤の文面をわたしの文にするくらいですね。

あなたは自動お神籤器に100円入れ、お神籤を引きます。

64番 大吉 このみくじにあたれるひとは
猫ちゃんなら豆腐洗いに自信が持てます。
解釈:
わからない……。

余裕がないからブログ休みー、
余裕がないとは便利な言葉であり、時間精神経済体力能力それらの複合すべてをいい加減に意味させることができる。いつでも余裕はないのであった。

今更何を言っているんだ、ではありましょうが、萩原朔太郎ってすごいですね。
岩波文庫の『猫町 他十七篇』に入っている、小説or散文詩『日清戦争異聞-原田重吉の夢』が、
前も読んでいるはずなのに、今回再読したら、もの凄く来ました。原田重吉のように戦争を楽しんでしまい/終わって退屈する男は、別に日清戦争に限らず、まあどの時代どの国にもいるのであろうなとは思いますが、その戦争の英雄が、戦争が終わって旅芸人になり戦争時代の英雄像を自ら演じて回るなんて、悲惨で滑稽で、冗談みたいな悪夢のようでありつつ、しかももの凄くありそうだ、事実としてそのような例の多寡に関わらず、もの凄くあり得ると感じられたことでした。

二十年前、十代のころ読んで、当時評判も高かった小説家の短編等をぽつぽつ再読してみようとしています。そんなことを始めたのは、別に意図はなく、あの話良かった気がする、また読んでみたい、だけです。それで読み始めたのは、水上勉『はなれ瞽女おりん』。今でも文庫で読める。『越後つついし親不知・はなれ瞽女おりん』
瞽女さんという過酷な生活を強いられた人々、しかもその瞽女仲間からも追放され、一人で旅をする瞽女さんの記録であり、その題材は読まれる伝えられる価値があるはずなのですけれど、書かれ方が、あの、旅回りの瞽女さんたちを実際に見るような幼少期を過ごした後、都会のインテリになってしまった人が、何だか俗なヒューマニズムに依拠して書いているようであり、下手すると、瞽女さんという存在を書くことで、瞽女さんを収奪しているようにすら見えてしまいました。
森茉莉が『ヒューマニズムがヒューヒュー言っている』と揶揄していたのは、ああ、例えばこういう作に対してなのだろうか。(もちろん、森茉莉がこの本を読んでいたかわたしは知らない。読んでなさそうな気はする)
この本をわたしは、多分高校生の時読んで、題材に打ちのめされたけれど、ヒューマニズムの嵐には何とも思わなかった、そういうものに浸かっていたのだなあとちょっと愕然としました。
ついでに主人公の『おりん』に理想の女性像を押しつけているようでもあり、
おりんは、苦しい境遇で性愛に溺れつつもとても心がきれいで、つましくて、知り合った脱走兵を一途に思い、従順であり、この小説をジャパニメーション絵でアニメ化したら、『おりん萌え』したりする方もいるのではないか、と思いました。文豪とは言われなくても、『水上文学』と呼ばれ高級扱いされていた作品群の一端が、今の自分にはこう見える。もちろんわたしの読書嗜好は偏向していますし、見識もないですし、読書する人としてのわたし自身の読み方自体がもう古いかもしれません、わたし以外の方々には、わたしの評価など当てになりません。ですが、わたしはわたしの評価、勘を無視するわけにはいかないのでした。
水上勉氏が亡くなったのは確か、21世紀に入ってからで、ええ、こんなに早く賞味期間が切れるの? 『はなれ瞽女おりん』が今でも読まれる価値があるとすれば、それは題材となった瞽女さんについて知るとっかかりとしてであり、
瞽女さんについて真っ当に調べたいなら研究書を読んだりしたほうが良くはないか。

耐久性がある、何十年何百年も残る小説と、一時期持て囃されても残らない小説は何が違うのかという興味が強くなってきました。残る小説には、いい紹介者がいたりするという、そういった運の要素もあるでしょう。そういう人がいなかったために消えてしまった作や作家もあるのでしょう。
わたくしもいい年になり、昔読んだ小説を現在読み返すと、二十年や下手すると三十年のtime-lagを置けるという体験が可能になりました。小学生や中学生のころに、一応本文を全部眺めたからといって、全然読めてなかった可能性は高いわけですが。
吉行淳之介は今もいい作品がありそうだ、井上ひさし氏は日本語ネタのものは今読んでも興味深いが、今、『吉里吉里人』読めるだろうか、黒岩重吾氏の短編を読み、ああ、現在の青年漫画誌の人情ものみたいだなー、と適当に思ったりし、
……しかし、後の時代に生まれたというだけで、偉そうに、ちょっともう読めないねーなどと言っているのはあまりに傲慢なんじゃないか……という気もするが……
以前は、書かれた風俗が古びると読めなくなるのかもしれない、と思ったりもしましたが、そんなの註がついていれば良いだけです。大衆小説/文学の区切りもまた関係なさそうで、江戸川乱歩も夢野久作も今でも面白い。夢野久作は「ドグラマグラ」が有名だけれど、わたしは彼の短編の方がずっと好きです。
書かれた当時、巷間に流布した思想に無自覚に依拠していると賞味期限が早く切れるであろう、とは想像できますが、それを越える力のある作も稀にあるのではないでしょうかね。というか別の部分で評価されるとか。(少ないでしょうけれど)

次は『婉という女』にチャレンジする予定だったのですが、
なんかボオドレエルとかスタンダアルとかに影響された近代日本の作家の作品が無闇に読みたい。かつてわたしは堀辰雄の『聖家族』が好きだった。
『燃ゆる頬・聖家族』
今読むとどうなんだろう。