SFとしての「死者の書」
やっと再読しました。『死者の書』/折口信夫
あらすじ:貴人の死体が復活してテレパシーを出して、
テレパシーに呼ばれた貴女が、山の向こうに仏を見てテレパシー元の死体が葬られている塚のそばの寺に走る。
『死者の書』とその自己解説『山越の阿弥陀仏の由来』は大昔に読んだが、全然わからなかった。
5W1H、つまり誰がどこで何をやっているのかすらわからず、でも根性だったか惰性だかで最後まで眺めた。
こういうのは読書というのでしょうか?
再読して、一応誰がどこで何をしてるのか何が起きているのか理解できました。これは進歩ですか。……。
日本古代の信仰(神道)に、仏教が入ってきて古代から次の時代に移っていく物語でもあります。
『死者の書』でテレパシー出している死体である尊い方は『古代の人』であり、
受ける側の、貴人の乙女、神道の巫女になるべき藤原南家郎女は『仏教伝来以降』の人です。写経をばんばんしたりなさいます。そして、この国の貴女で『はじめてものを考えた女性』と描かれています。
あう、『ものを考える』は現代では良いこととされていますが、
神道の神を信じるだけで良かった古代から見ると、『堕落』なのかもしれないです。
わたしは高校の日本史で、『仏教伝来』と習ったが、単に『仏教伝来』という言葉を覚えただけで、その『仏教伝来』が、どのようなインパクトを当時の貴人(文字が読めたりする層)に与えたのか、想像もつかないような衝撃だったのであろうということを
わたしは全く考えたことがなかった。
わたしには想像もつかないということを想像しなかった。
アレだ、国や時代が違えば、人のあり方が、考え方や価値観の差や『バカの壁』どころか、感情とかすら違う、ということは、理解していたつもりなのだが、(わたしはそれを多分最初、SFで学んだ)やっぱり頭で理解していただけですね。
しかも、もしこの作品に『SF』のレッテルが貼られていたら、この小説は『まったく違う人間/人間社会のあり方』を書いたフィクションなのね、と意識して読むだろうけれど、
貼られているレッテルは、『名作近代日本文学』ですよ。『名作近代日本文学』で、
わたしは、『まったく違う人間/人間社会のあり方』を書いている作品があると、想像していなかったのでしょう。
貴人の娘、藤原南家郎女(ヒロイン)が喋る言葉が、貴人でない人には通じないとか、
そういう当時の人々の習俗の細部が本当に興味深かったです。貴人の死体復活テレパシー発射になる原因も、九人の神の姿をして、神である心になった人が、魂を呼ぶ儀式を行ったためです。
……その儀式が執り行われたのは、テレパシーに呼ばれて自邸を出奔し、寺に行ったヒロイン・藤原南家郎女を呼ぶためだった……と思っていたけど、それだと物語中の時間がおかしい。
復活してテレパシー出したから、ヒロインが出奔したのに/出奔したヒロインを探すために魂呼ばわりをして貴人が復活してしまった/ってどういうことよ?
やはりまだ理解がおかしい。また、いずれ再読します。
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……知り合いの実際的な能力に長けた男性に、『昔の貴族のお姫様は本当に駄目な人たちだ。自分では何にもできない』と言われた時には結構唖然とした。
昔の人のことを今の基準で量られてもな。
まあその発言はその実務的な男性が、わたしが月の女王様であることに対して抱いた、妬み嫉み嫌みから発せられたようにも思われる。(いや、単にSFマインドが無い?)
芥川龍之介の小説に、平安時代の姫の話があって、その姫が何もできず、何も行動しないことを裁くようなのがあったような気がするんだが、だとすると芥川はつまらねーじゃん、と思うけれど、芥川当時は、平安貴族を当時の現代感覚で描くことが、何か有意義だったのかもしれず、そうするとわたしが今のわたしの現代の感覚で芥川のその小説だめじゃんとか言うのは、またそれも、『昔』を、現代の感覚で裁くことになるな。というかその小説の題名忘れてるし。本当にそういう話だったか怪しい。
とはいえ、
誰もが貧しく田畑を耕し続けなければならなかった時代に、『何もしない』ことがステータス、貴人の証であったかもとは、簡単に想像できるが、その理解は正しいのか。
民俗学者の先生が、学問をやっていると、勘ではそうではないかと思えるけれど実証できない事柄がどうしても出てくる、折口はそれを創作という形にしたのではないかと言っていた。なるほど。
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折口信夫萌えという激しく変な方向に行っていますが、
(……でも、もし自分が、折口博士が教鞭を執っておられた時代に國學院大學に入学していても、弟子になるのは絶対にイヤです)
三島由紀夫が折口信夫を露骨にモデルにした小説を書いているらしい、と知り、これは読まねばと、いそいそと図書館で三島全集を漁りました。
アレですね、ほとんど、『my萌えマンガやアニメ』の同人誌を、好き同人誌作家さんが書いているらしい! 絶対読まなくては! という腐女子発想ですね。
タイトルは『三熊野詣』です。
新潮文庫の三島自選短編集『殉教』にも収録されています。
……やおいではありません。(ここでがっかりしてはいけない)
ある種、ミステリ仕立てになっていてモデルがどうこうなど考えず、面白く読めます。
意地悪な揶揄と受け取る人もあるでしょうが、なんというか、単に三島には『見えてしまった』のではないかと思います。
何が見えたかとは訊かないでくださいわたしには答える見識もないのですから。
『貴種』たらんと無理に欲すれば技巧、演劇、装置が必要である、といったことなのかなあ。
短編集『殉教』は、昨日買ったばかりで、まだ、最初に収録されている『軽王子と衣通姫』の途中までしか読んでいませんが、最近、ちょっと続けて平板な現代文の小説を読んだばかりだったためか、三島の文章のあまりの美しさ、書かれている概念の複雑さに、目眩がするようでした。
そして以上すべてとまったく関係なく、田中啓文氏の駄洒落SFが読みたい。
『死者の書・身毒丸』折口信夫
『殉教』三島由紀夫
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