2005年8月アーカイブ

書く余裕がないからとか一月ぐらいブログ休むとか書いた矢先ですけれど、
気になると書かないと落ち着かない。

「気刊 何の雑誌」6号(幻堂出版/04/07発売)掲載の鈴木漁生氏作・小説『あかなめ』の感想。

あらすじ:昭和20年代に生まれた発育不全の少年、「渉」は、路地に座り込んでいるうちに、強烈な恍惚感をともなった”あの感じ”を味わう。”あの感じ”は一瞬で過ぎ去ってしまうし、ある年齢を境にぴたりと”あの感じ”はやってこなくなるのだが、渉は、”あの感じ”を求め続けるのだった、
そのうち、渉は父親に見せ物小屋に売られ、舞台で『妖怪・垢舐め』の役を振られる。風呂桶を舐めているうちに、『垢舐め』行為によって、渉は”あの感じ”を再び手に入れられることに気づくのだった。

この小説の、
特にキーワードだと思われる”あの感じ”という表現は、著者が何度も考えて、自分でも実際に頭の中で繰り返してきた言葉なのではないだろうか。
わたしも、”あの感じ”という、『あかなめ』と、まったく同じ表現で、表していた感覚がある、それがこの『あかなめ』の渉の感じる”あの感じ”と同じかはわからない。
渉の感じる”あの感じ”はこういうものです。

目に見えぬ何かが、いきなり渉の体に飛び込んできた。 --刹那。えも言われぬ快感が、渉の体を電気のように疾り抜け、次の瞬間には、もうその目に見えぬ何かは渉の体から飛び出して、どこかへ去っていった。(中略)ただ、めまいのするような強烈な恍惚感に貫かれたその余韻だけが渉の体の中に残っていた。

うーん、わたしが子供のころ感じた”あの感じ”は、
一瞬で過ぎ去った点、いつの間にかほとんど訪れなくなった点等では、『渉』のそれと似ているのですが、
『強烈な恍惚』というほど強烈なものではなかった、気がする。
なにしろ一瞬で過ぎ去り、それを感じた直後であっても、その感触の残りを反芻するのも困難なので、これこそほんとうに、名状しがたい! 名付けがたい、”あの感じ”としか言いようがない。
夕焼けに暗みが増して朱色から藍色になっていくころの、晩秋の武蔵野の、葉の落ちた切り立ったケヤキか何かの枝に、月と金星が光っているのを見たときとか、何か夕方、空を眺めた時に多く感じたような記憶があるが、自分の記憶など当てにならない。
性的な性質のものでは恐らくなかったし、至高体験というほどのものでもない、もしかしたら特に対象のない『萌え』みたいなものなのか。
何か遠くへの憧れのような郷愁のような甘美というにはもう少しストイックなもののようだった。小学生のころは、惑星だの宇宙だの恒星だのブラックホールの謎といった本をよく読んでいた。そこに感じた『遠く』への興味が、空を見上げた時にオーバーラップしたのかもしれないし、♪名も知らぬ遠き島より流れ寄る椰子の実一つ、と歌われたりした父祖の地の、その祖先が元いた遠き島の故郷へのノスタルジーとかなのであろうか、とか、本当に適当に憶測してみたりもする。
ただ”あの感じ”を再現し定着する装置があるならば今でも欲しい。
わたしは、空想に溺れる子供であったが、その空想するという作業は、『”あの感じ”再生』の試みでもあったのかもしれない。そして空想を定着するのが後に、創作したりに繋がっていくのだけれど、”あの感じ”を定着するのとは別の方向に行っていると思う……だって、”あの感じ”は、本当に一瞬で消えてしまい、それを感じたことは覚えていても、感触自体の記憶は残さないのだから。


『あかなめ』の主人公は、幸福にも、”あの感じ”を再現できる方法を獲得する、風呂桶の垢を舐めるというひどく卑俗な、恐らく、誰とも共有できない方法で。そして一生を、”あの感じ”を感じるために捧げるわけですが、
ああ、この発見した方法が、誰でもその方法を行いさえすれば”あの感じ”確実にゲットできる方法であったならば、と思う。
……風呂桶を舐めるのは誰にでも出来るだろうが、”あの感じ”を得られるのは『渉』だけだろう……。
例えば芸術作品という形だったり、新しいドラッグ製造だったり、体操だったり、宗教だったりといった方法で、そして、渉がそれを伝道すれば、ああ『渉』はある意味『神』かもなあ、ここで言う神は『レディオヘッドのトム・ヨークは、レディヘのファンにとっては神』とかと同じ意味での『神』だが。

しかし、『渉』にはそもそも、誰かに”あの感じ”を感じてもらいたい、分け与えるという発想がない。
そして、『ロックスター』にも『神!』にも『教祖』にもならず、人知れず世間に紛れて消えていく。そのような人は、昔から実はたくさんいたのかもしれない。
実際のところ、”あの感じ”を感じる人はどれくらいいるのだろう?
著者の鈴木漁生氏は間違いなく感じたことがあるだろう。
創作してみようとかいう人には、”あの感じ”感じ率が高いのか?
それとも誰でも子供時代には感じるのか? 脳内物質とか何かそういうものが、子供時代に分泌されやすいとかそんな理由なのか。謎。

幻堂出版HP→http://www.geocities.jp/maborosidou/

それではまた、しばらく消えます。お休みなさい。

オンライン小説を読みました。
夏になると死者が見えるという少年が、太平洋戦争中に空襲で亡くなった少女とコンタクトを取るというお話で、別にこの小説自体は、一生懸命書かれているなああ、比較的良心的なんじゃないのー、ですけれど、わたしにはどうでもいい存在でありお薦めなど決していたしません。最後には『イイ話』に収斂されます。
ああ、『イイ話』の集積がどれだけ鬱陶しいことか。

気になったのがー、
文中で、太平洋戦争中で亡くなった少女が、
自分が死ぬことになった戦争を
『太平洋戦争』と言っているところですね。作者は色々資料を調べてお書きになっているようなんですが。
この話では、死者は、死ぬ前のまま、自分が死んだ場所から動くことができない、周囲の状況も、主人公と出会うまでわからない、という設定になっています。でも『イタコ』の少年と会った途端、彼女は自分が『太平洋戦争』の空襲で死んだと言うんだよ。
太平洋戦争の時、国内で死んだ、ごく普通の少女なら、当時の日本側の「太平洋戦争」の呼称は『大東亜戦争』なんだから、『大東亜戦争』と言うんじゃないのか。

そして、
主人公が、鮮やかな光に満たされた夏にのみ、死者たちとコンタクトを取れるのは何故か。作中では、主人公の父が、夏に亡くなったからかもしれないと語られるだけだ。
以下はわたしの記憶から来た推測ですが、わたしを含む1960年代以降に生まれた日本人は、戦争を知らない人々が大人になって影響力を持つようになったころに育った。わたしは子供時代に、平和教育という名で、太平洋戦争末期の日本人非戦闘員の悲惨な面(国家総動員されてるからみんな戦闘員なのか?)……特に、原爆投下、少女までかり出された沖縄戦、終戦の玉韻放送……といった事件の映画やお話を叩き込まれた。
すべて、眩しい夏が背景になっています。
もちろん真珠湾攻撃から終戦まで、太平洋戦争は四年に渡って続いたわけですし、北方での戦闘も、戦後のシベリア抑留もあります。日本人女性や子供に対する悲惨な事件に限っても、東京大空襲は三月です。
ですが、子供時代の教育によって、わたしや、恐らくわたしとほぼ同世代(作品読んだ感じだと、プラスマイナス5歳くらい。知り合いではない)であろう作者には、太平洋戦争=夏というイメージが、刷り込まれているように思います。

上記のような二つの事実を踏まえると、
さきほどの小説の、
『死者とのコンタクト』を取るのが『夏』だけ、
戦時中に亡くなった少女が『太平洋戦争』と言う、などは、
もしかして『叙述トリック』ってやつですか?
死者とのコンタクトなんて主人公の思いこみ妄想に過ぎないんだよバーカ、が結論か。
……ああ、今年の目標はバーカバーカと言わないことだったのだが、しかし、こういう『イイ話』は、書き手としてのわたしには、敵なんだよ。
読み手としてはどうでもいい物体である。一個一個はどうでもいいが集積が鬱陶しいだけ。
敵に分類される作品を書くやつは、その人がどんなに『いい人』『立派な人』だろうと、敵なんだよ……

いや、叙述トリックを駆使し、わたしの読み切れなかったところで、殺人事件が起こり、犯人が明かされているのかもしれない。
だったらすげーんだが。そんな面白いことはないのだろうなやはり。

やっと再読しました。『死者の書』/折口信夫

あらすじ:貴人の死体が復活してテレパシーを出して、
テレパシーに呼ばれた貴女が、山の向こうに仏を見てテレパシー元の死体が葬られている塚のそばの寺に走る。

『死者の書』とその自己解説『山越の阿弥陀仏の由来』は大昔に読んだが、全然わからなかった。
5W1H、つまり誰がどこで何をやっているのかすらわからず、でも根性だったか惰性だかで最後まで眺めた。
こういうのは読書というのでしょうか?
再読して、一応誰がどこで何をしてるのか何が起きているのか理解できました。これは進歩ですか。……。
日本古代の信仰(神道)に、仏教が入ってきて古代から次の時代に移っていく物語でもあります。
『死者の書』でテレパシー出している死体である尊い方は『古代の人』であり、
受ける側の、貴人の乙女、神道の巫女になるべき藤原南家郎女は『仏教伝来以降』の人です。写経をばんばんしたりなさいます。そして、この国の貴女で『はじめてものを考えた女性』と描かれています。
あう、『ものを考える』は現代では良いこととされていますが、
神道の神を信じるだけで良かった古代から見ると、『堕落』なのかもしれないです。

わたしは高校の日本史で、『仏教伝来』と習ったが、単に『仏教伝来』という言葉を覚えただけで、その『仏教伝来』が、どのようなインパクトを当時の貴人(文字が読めたりする層)に与えたのか、想像もつかないような衝撃だったのであろうということを
わたしは全く考えたことがなかった。
わたしには想像もつかないということを想像しなかった。

アレだ、国や時代が違えば、人のあり方が、考え方や価値観の差や『バカの壁』どころか、感情とかすら違う、ということは、理解していたつもりなのだが、(わたしはそれを多分最初、SFで学んだ)やっぱり頭で理解していただけですね。

しかも、もしこの作品に『SF』のレッテルが貼られていたら、この小説は『まったく違う人間/人間社会のあり方』を書いたフィクションなのね、と意識して読むだろうけれど、
貼られているレッテルは、『名作近代日本文学』ですよ。『名作近代日本文学』で、
わたしは、『まったく違う人間/人間社会のあり方』を書いている作品があると、想像していなかったのでしょう。

貴人の娘、藤原南家郎女(ヒロイン)が喋る言葉が、貴人でない人には通じないとか、
そういう当時の人々の習俗の細部が本当に興味深かったです。貴人の死体復活テレパシー発射になる原因も、九人の神の姿をして、神である心になった人が、魂を呼ぶ儀式を行ったためです。
……その儀式が執り行われたのは、テレパシーに呼ばれて自邸を出奔し、寺に行ったヒロイン・藤原南家郎女を呼ぶためだった……と思っていたけど、それだと物語中の時間がおかしい。
復活してテレパシー出したから、ヒロインが出奔したのに/出奔したヒロインを探すために魂呼ばわりをして貴人が復活してしまった/ってどういうことよ?
やはりまだ理解がおかしい。また、いずれ再読します。

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……知り合いの実際的な能力に長けた男性に、『昔の貴族のお姫様は本当に駄目な人たちだ。自分では何にもできない』と言われた時には結構唖然とした。
昔の人のことを今の基準で量られてもな。
まあその発言はその実務的な男性が、わたしが月の女王様であることに対して抱いた、妬み嫉み嫌みから発せられたようにも思われる。(いや、単にSFマインドが無い?)
芥川龍之介の小説に、平安時代の姫の話があって、その姫が何もできず、何も行動しないことを裁くようなのがあったような気がするんだが、だとすると芥川はつまらねーじゃん、と思うけれど、芥川当時は、平安貴族を当時の現代感覚で描くことが、何か有意義だったのかもしれず、そうするとわたしが今のわたしの現代の感覚で芥川のその小説だめじゃんとか言うのは、またそれも、『昔』を、現代の感覚で裁くことになるな。というかその小説の題名忘れてるし。本当にそういう話だったか怪しい。
とはいえ、
誰もが貧しく田畑を耕し続けなければならなかった時代に、『何もしない』ことがステータス、貴人の証であったかもとは、簡単に想像できるが、その理解は正しいのか。

民俗学者の先生が、学問をやっていると、勘ではそうではないかと思えるけれど実証できない事柄がどうしても出てくる、折口はそれを創作という形にしたのではないかと言っていた。なるほど。

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折口信夫萌えという激しく変な方向に行っていますが、
(……でも、もし自分が、折口博士が教鞭を執っておられた時代に國學院大學に入学していても、弟子になるのは絶対にイヤです)
三島由紀夫が折口信夫を露骨にモデルにした小説を書いているらしい、と知り、これは読まねばと、いそいそと図書館で三島全集を漁りました。
アレですね、ほとんど、『my萌えマンガやアニメ』の同人誌を、好き同人誌作家さんが書いているらしい! 絶対読まなくては! という腐女子発想ですね。
タイトルは『三熊野詣』です。
新潮文庫の三島自選短編集『殉教』にも収録されています。
……やおいではありません。(ここでがっかりしてはいけない)
ある種、ミステリ仕立てになっていてモデルがどうこうなど考えず、面白く読めます。
意地悪な揶揄と受け取る人もあるでしょうが、なんというか、単に三島には『見えてしまった』のではないかと思います。
何が見えたかとは訊かないでくださいわたしには答える見識もないのですから。
『貴種』たらんと無理に欲すれば技巧、演劇、装置が必要である、といったことなのかなあ。

短編集『殉教』は、昨日買ったばかりで、まだ、最初に収録されている『軽王子と衣通姫』の途中までしか読んでいませんが、最近、ちょっと続けて平板な現代文の小説を読んだばかりだったためか、三島の文章のあまりの美しさ、書かれている概念の複雑さに、目眩がするようでした。

そして以上すべてとまったく関係なく、田中啓文氏の駄洒落SFが読みたい。

『死者の書・身毒丸』折口信夫

『殉教』三島由紀夫