2005年7月アーカイブ
80年末-90年代初頭のやおい事情は断片的な伝聞から推測するのみです。
わたし自身は当時はやおいに興味がありませんでした。
で、90年代前半か中ごろか、ふと通りかかった本屋の店頭に「耽美小説」があふれておりました。「受け」「攻め」という言葉を聞いたのも多分そのころです。
人間関係での、特定の機能のみに着目し、登場人物を分類する、あまりに合理的な表現に何か軽いカルチャーショックを受けました。
「脇役」とか「主人公」とかも登場人物の分類表現ですが、こっちを聞いても平気なのは、慣れているからでしょうか、しかし、「脇役」「主人公」は、小説内での位置を表す言葉です。
脇役Bさんを主人公にして、書くこともできるでしょう、もちろん作品は全然違うものになるでしょうが。その場合、Bさんは脇役ではなく、主人公になります。
一方、「受け」「攻め」は小説内での人間関係に於いての役割を表すものだよな。
主人公で「受け」の人物Aさんがいる小説があって、
その番外編として、「攻め」の人物Bさんを主人公にすることもできるでしょうが、
その場合、脇役になったAさんはやはり「受け」のままで、主人公になったBさんも「攻め」のままです。「受け攻め」が入れ替わっていく「リバ」……リバーシブルの略だと思う……とかはあっても、「受け攻め」が、人間関係で、人を役割に於いて分類する言葉であるのは変わらねーと思います。
ボーイズラブという言葉を聞いたのもそのころでしょうか。
現在、わたしは、ボーイズラブを、上記の「受け/攻め」なども含む、様々なルールが組み合わさって出来た様式、と捉えています。
去年、ボーイズラブとして商業出版された作品をそれなりに丁寧に読んでそう考えました。
といっても、
読んだ本や雑誌十冊程度、作品だと数十作で、ですから当てにはなりません。
様々なルールの複合体である様式、の「様々なルール」とは例えば以下のようなことです。
やっぱり作品が最終的に発するメッセージが「恋愛も性愛も疲れるからやめようぜ!」だったらそりゃまずいだろうな、とかはまあともかく。
とりあえず目についたのは、
わたしが比較的丁寧に読んだ小説の、ワンシーンの組み立て方です。
ある出来事が起こるとします、
それに対する登場人物の感情が書かれ、
そして登場人物の内面の声が独白として入ったりします、そして、それに対する説明が入ります、さらに何らかの結論づけたりもします。
{恋? まさか、オレが男に、しかもあんなやつに恋だって!?
亜紀也はどうしても素直になることができなかった。それは彼の、複雑な生い立ちに原因があるのかもしれなかった。愛のない家庭で育った亜紀也は誰も--自分すらも信用することができないのだ}
……稚拙な例ですいません。
説明は地の文だったり、稀に他のキャラクターの言葉であったりもします。
誰かに『ある感情』が起こった、その原因を説明するというのは非常に困難だと思いますが、だってさ、例えば、わたしが今不機嫌なのは、単に眠いからかもしれないし、アレとアレが気になっているからかもしれないし、蒸し暑いからかもしれないし、性格のせいかもしれないし、数年前に誰かに言われた言葉が気になっているからかもしれないし、人類の未来を憂えているのかもしれないし、幼年期のトラウマかもいや前世の、
……という訳です。
主要な理由が明らかに推測できる場合は確かにありますけどね。
それなのに、一つか二つの理由で説明しなきゃならないのは何故なんだ。
それはエンターテイメントだから、読む人がすっきりしなければならないからだろう、なのでしょうが、
例えば、屈折した主人公が不機嫌になったのは、「攻めの彼とちゃんと向き合っていないせい」とか、処世訓みたいなこと言われてもな……。
90年代後半以降、やおいを、雑誌の「JUNE」に載ってた小説くらいしか読んでいなかったころから、すげえ説教臭さを感じる作に時々出会い、しかも別に作者は同じではない、何でかなと思っていました。
「説明→説明するには、何らかの基準/価値観なり人間観なり倫理観なりが根底にあることが必要→読者がすんなりと納得できる/あるいは読者がすんなりと納得できると作者が考えている/あるいは作者が持っている/そのような倫理基準が出てしまう場合がある→作者/読者が簡単に共有できる倫理基準は巷間に流通している処世訓だったりする場合が多し」といった仕組みになったりしていたからなのかなあ、と最近は思っています。
もちろん、そんな説教臭さなど感じさせない、こういう登場人物だからこう考えるだろうと思わせてくれる作者の方もいらっしゃいます。
去年読んだボーイズラブ?小説の中で、楽しく読ませていただいたのは、綺月陣氏の『鴉(カラス)』、和泉桂氏の『秘めやかな契約』などです。(熱烈にお薦めしているわけではありません。和泉桂氏の件の作は日本語が露骨におかしい部分がある。と同時に、綺月陣氏が、ジャンルの制約を離れて、全くご自分のお好きな方法で書かれた作を読んでみたいです)
これ以下、どんどん憶測/仮説になっていきます。勘で書いており、実証が全く欠けています。よろしく。
……そういった登場人物の行動/感情に対する説明の多さが、ボーイズラブ小説の一つの特徴と思われたわけですが、
これって、なんというか、ノベライゼーションっぽくないすか。
映画を見て、ノベライゼーションを読む時の楽しみの一つとして、映画では、よくわからなかった或るシーンの意味の解説とか、映画には描かれなかったか事情を知るとか、俳優さんが表情だけで表した微妙な感情の説明だったりします。
90年代初頭に、雑誌JUNE以外にボーイズラブ雑誌がどんどん増えていった時、書き手を探すのにコミケなどの人気同人誌作者をスカウトしていったそうですね、やおい同人誌世界に足を突っ込んでいる方は、同人誌を見ると、その作者がオリジナル創作畑の人か、二次創作から入った人かわかるそうで、いちがいには言えませんけど、二次創作出身の職業ボーイズラブ小説家の方はやはり多いのでしょう。
原作がある作品の二次創作、ファンフィクションは、原作の読替と同時に、あるシーンの背後とか、さらに登場人物の行動感情の意味の解説が大きな読ませどころなんじゃないか、
だから、二次創作から商業ボーイズラブ小説家になった人が多いなら、商業ボーイズラブ小説の説明の多さにも納得がいくような気がする。むしろ読み手も説明を楽しんでいるんでしょうか。
原作のない映画のノベライゼーション。
そしてまた、商業ボーイズラブ小説家には、登場人物の設定だけして、イラストレーターが描いたキャラクターデザインのイラストを見て、イラストに萌えてから作品を書く方もいらっしゃるとか。
原作のない映画のノベライゼーション、と書きましたが、
商業ボーイズラブ好きな方は、標準で『ジャパニメーション絵フィルター』がインストールされていらっしゃるのではないかという疑問があるんですが、どうなんでしょう。
わたしは小説読んだり自分でも書いたりする時、登場人物の気配みたいな空気みたいなものを感じたりします。しかし、ジャパニメーション絵はもちろんリアル人間の肖像もあまり浮かびません。
商業ボーイズラブ好きな方はやっぱり、商業ボーイズラブ本は、表紙もイラストも基本的にジャパニメーション的、でも微妙にボーイズラブに固有な画風の絵が圧倒的に多いですが、やはりその画風の絵を思い浮かべつつ、小説を読んでおられるのでしょうか。謎だ。
もしそうなら、ボーイズラブ本を読みながら、でも読んで/見ているのはその本単体ではなく、脳内展開させた、その本の仮想の原作の、素晴らしいアニメ映画も同時に透かし見ていたりするのでしょうか。
原作のないジャパニメーション映画のノベライゼーション?
「やおい」も「ボーイズラブ」もインターナショナルになり、
アメリカのYahoo!で『yaoi』で検索したらも、1,930,000件あったよ。たくさんの人が作りあげる百科事典wikipediaの英語版にも出ていました。http://en.wikipedia.org/wiki/Yaoi
現在、わたしが想定する『やおい』『ボーイズラブ』という言葉の定義範囲から、『yaoi』も『boys' love』も、どんどん変わっていくかもしれませんね。
いつまで続くのか? 娯楽としてワールドワイドに定着していくのか?
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去年、ボーイズラブをそれなりに丁寧に読んだのは、雑誌のJUNEが休刊し(わたしは雑誌のJUNEに、たまに創作を載せていただいておりました)、じゃあ、果たして自分はボーイズラブが書けるのだろうかと考えてみたためです。
試しに前述したようなシーンの組み立て方をして、ちょっと書いてみました。
枚数はダラダラ進むけど、手応えがなく(エロティックなシーンは楽しかったです)、わたしにはボーイズラブは書けないのであろうと、自分のスタイルに戻しました。
無理矢理、わたしが考えるところのボーイズラブふうに書き上げたとしても、ボーイズラブが本当に好きで好きで仕方がない人が満足するものになるわけがありません。
それにしても、書けないことくらい予想しろよ。
で、そういうわけで、雑誌のJUNEともボーイズラブとも無関係な身になり、
もう「やおい」「女性向けに書く男性同性愛」とは関係ないのかなあ、
となったら、
書き手としてのわたくしとは無関係に、単なる一腐女子としての「やおい萌え」が、ごく稀に発動されるようになりました。
最初に「やおい」を「女性向けに書かれた、男性同性愛創作」と定義しましたが、
ストレートな恋愛や性愛より、フィクションの男性同士の、奇妙な関係のほうに惹かれます。
クラスで一人だけ浮いている少女
かつて、70年代末-80年代、そのような少女が背伸びして読むのが、
雑誌「JUNE」であった、と当時を知る方が語ったのを聞いたことが
あります。
わたしが読んだりしていたのは80年代前半でした。
別に背伸びしてはいなかったし、
読んでいるのもクラスで一人だけではなく、同級生から回ってきたよ。
雑誌のJUNEやライバル誌のALLAN(すまんALLAN派でした)、
それからタイムラグを置いて読んだ24年組の少年愛マンガの数々、
それらが、初めてわたしが目にした「女性向けに書かれた男性同性愛」創作でした。
単に、「女性向けに書かれた男性同性愛」創作だけを表す言葉としては、わたしには現在、
「やおい」がもっともふさわしいように思えます。
が、これも「やまなしおちなし意味なし」の略だとかその元になった同人誌だとか作品群だとか、ルーツを直接ご存じの方は、その言葉に、当時の「やおい」という言葉に独特のニュアンスがありありと浮かぶのだろうな、と思います。
坂田靖子氏が関係していたという話を読んだ気がしますが、このブログは記憶力を破壊された人間によって書かれているため、『信憑性の薄い伝聞や仮説やらも書く、ただし、その情報の信憑性が怪しい時はそう注意する』という方針になっていますので、正確な情報が必要な方は、
別のところを当たってくださいますようお願い申し上げますですよ。
というわけで、わたしは「やおい」発生時代の事情は知らないし、作品も知りません。いや、まあ、その結果、単に、「やおい」という言葉が、「女性向けに書かれた男性同性愛」として一番包括的に使えそうに思うようになっています。知らないとそんなものですね。
気がつくと、JUNEは雑誌名であると同時に、ジャンル名になっていました。
しかし、先ほどぐだぐだ書いた「やおい」という言葉と同じように、
「JUNE」という言葉は雑誌のJUNEに思い入れがある方も多く、
人によって定義は違うようです。
本屋さんで売っていた雑誌ですから、思い入れのある方、その実物を知る方は、「やおい」の場合より多いでしょう。
ただ、過去は美化されるんだよ……。当時のわたしが見てもひどい小説も載っていたよ……。まあ実際、非常に惹かれた作品もあったのは事実で、惹かれる作とアウトサイダーアートが混じっている、それも良い思い出かもしれません。
ただ、雑誌にしろジャンルにしろ「JUNE」は、まず、「女性向けに書かれた男性同性愛」であることが、無言の前提になってしまっているけれど、80年代以前には、むしろ、「クラスで一人だけ浮いている少女のための創作」であり、それが少年愛の形を取ったのは、その時代には「それが都合が良かったから」なんじゃないかと思います。
あー、太宰治が何かで、(女の作家っていうのは馬鹿だ、男の作家が書いた女を真似て、女を書いている)といった内容のことを書いているのを読んだ気がするのですが、
いや、そうなってしまうんだよ、特に、「クラスで一人だけ浮いている少女」は
まあ読書とかに向かいがちです(include meっていうか自分だよ)。
濫読したりしますから余計、男の作家の書いた女の真似でしか女書けない、
数少ないお友達の女の子がいて、彼女たちのことがとても好きでも、
そりゃ小説のfemme fataleとかのほうが魅力的だから、自分で初めて書こうとした時はやはり、男性が夢見た美女・悪女・悪魔的美少女ーとか、の真似になってしまうのですよ。たまに、とても魅力的な女友達がいたら、逆に小説や映画のキャラクターに重ねてしまったりな。
そのトラップから逃げるのにちょうど良いのが、「やおい」だったんじゃないのか。
いや、女書くのはマジで難しかったです。男性作家がほとんどだった時代に、「女が書けなきゃダメだ」っていうのは他者が書けなきゃダメみたいな意味なんだろうけど、あー、こっちは「他者として書かれた虚構の女たち」フィルターを外さなきゃならないわけですね、そんな難しいこと簡単にできるかって>太宰君
しかし、数年前から、わたし的には、「この登場人物の女はそれなりにリアルなんじゃないか?」と思えるような女の人が書けるようになりました。まあ、痛い人ばっかりですが。
女性を書く女性作家も増えました。
だから、今、「クラスで一人だけ浮いている少女のための創作」があるとしたら、別に、
「やおい」じゃなくてもいいんじゃないの。逆に「やおい」であっても良いわけです。
どっちでもいいんですよ。
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表題に(1)とあるように、この話続くみたいですよ。
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追記:
この文には、『やおい』を書く人/読む人のヰタ・セクスアリスについての考察が抜け落ちている。
別に研究者でも探求者でもないわたしでも、インターネットが普及した今では、大量のやおい好きの方にアンケートを取ったりということが不可能ではないけれど、そこまでする気力はない。『やおい好き』をキーワードに何かを読み解こうとは思わない。また、自分を対象(踏み台?)にする……、性愛に対する個人的な体験・感覚から、その自分が「やおい」がに惹かれた経緯を考えるという方法はあるが、わたしは、自分が個人的なヰタ・セクスアリスについて語ることに嫌悪を覚える(他人の語るそれも、場合によるが、あまり好きではない)。まあ嫌悪を覚える、という辺りにポイントがあるーー、かもしれないが。
自分がメスであること嫌悪→性的なもの嫌悪→でも性欲はある→自分に関係ない男どうしのお話ならオーケイ→という理屈は非常にわかりやすいが、自分も他のやおい好きの方にとっても、本当にそうなのか。
若干考えるところもありますが、それはそのうち創作の形で出せれば、と思っています。
2006/08/05
