短編小説サイト 死んだ恋人を捜して
スウェルとブラッドのバンドには悪い噂がたくさんある。
ロックンロール・バビロンへのオマージュめいた、セックスとドラッグと暴力のゴシップ。
タブロイド新聞のバカバカしい見出し。メキシコ・ティファナの別荘でのパーティ、スウェルのSMショウ。ロサンジェルスの売春婦の告白『ブラッドのあれは東洋人としてはギネスものね』。ブラッドのアクセル・ローズへの暴言『くそじじい、さっさと死ね』。その後の殴り合い。
どうでもいい噂。スウェルは一週間に一度しか風呂に入らない。ブラッドは下着を着けない。アルコールとチョコレート・サンデーしか食わない。
ゴシップの大部分は、二十一歳以上のまともな頭の人間なら、宣伝戦略か悪趣味な冗談ではないかと疑うような種類のもので、事実、根も葉もないでたらめも多い。
例えば、二人の出自が『カオルーンのストリート・チルドレン』だという伝説がそうだ。最初の楽器はチムサァチョイの楽器店のショウ・ウィンドウを叩き割って奪った、というのも事実に反する。だから、五十ccのスーパーカブに二人乗りして深夜の路地裏を逃走、というスリリングな物語は、残念ながら捏造にすぎない。
実際には、ブラッドはジーンズのポケットから無造作に掴んだ百元札の束でギブソンのレスポール・ギターを、スウェルはフェンダー・ジャズベースを父親のアメックス・ゴールドカードで、それぞれ手に入れたのだ。
二人は少々テキーラを飲み過ぎるきらいはあるが、ドラッグ漬けではない。女性を共有したり、十二歳のファンを強姦してその模様をヴィデオに撮ったりもしていない。
だけど、中には真実に近いものもある。
スウェルが捨てた子供時代からの婚約者。経費の中の大量の使途不明金。脱税。ブラッドの香港黒社会とのつながり。スウェルの整形。剽窃。
1
ウォン・スンウェイの父親はリベラルな新聞社の役員で、香港島ヴィクトリア・ピークの頂上近い邸宅から、毎日メルセデスを運転してワンチャイのオフィスに通っていた。
ウォン家の夫婦は裕福だったが、無駄な贅沢はしなかった。一人息子のスンウェイには勤勉と堅実という美徳を教えた。
スンウェイの子供時代の思い出は、庭の鮮やかな芝生、白いガーデンチェア、彼より年上の大きな優しいゴールデン・レトリヴァー、機関車トーマスのオモチャ、ボロボロに崩れ落ちるピーナッツのお菓子、それに二軒隣の幼なじみの女の子。
女の子は、フー・ツォンシュイといった。春の雪という意味の名前には、雪のように無垢で美しく、という両親と祖父母の願いが込められている。香港では降らない雪のように。
ツォンシュイは名前の通りに育った。
スンウェイが十、ツォンシュイが九つの時、二人は激しい恋に落ちた。スンウェイはきれいで可愛いツォンシュイのことを思って眠れない夜を過ごした。
やがてスンウェイは緊張しながら、双方の両親に二人の婚約を打ち明けた。まだ若い親たちは、笑いながら幼い恋人たちを祝福した。彼らは友人や同僚に、そのほほえましい小話を披露した。
この時点で、ウォン・スンウェイはその大人たちと同じようなものになることが宿命づけられていた。敏腕な職業人、良き家庭人、国を支える未来の中産階級。
二年後、スンウェイはスタンレーの私立学校にバスで通うようになった。白いシャツと白いズボンの植民地的制服がよく似合う、細い顎、吊り上がった目の利発そうな中学生。皮のカバンには、教科書と英語の辞書と鉄道の本が詰め込まれている。
同じクラスにブラッド・チャンがいた。
ブラッドは年上に見えた。顔も体も、他の連中のようにつるりとしておらず、骨格が目立った。膨れた唇、大きな鼻、張り出したえらをしていた。黒でも茶色でもない、異国的な目。だらしなく髪を伸ばし、白い制服のポケットに両手を突っ込んで、あたりをにらみつけているところは、名門校の生徒というより、イカれた水夫見習いみたいだ。
ブラッドの自己紹介では皆が沈黙した。
「僕の四分の一はパキスタン人で、四分の一はイギリス人で、二分の一は中国人だ。半分パキスタン人で、半分イギリス人の僕の母親はロックシンガーで、父親の愛人だった。何か文句ある?」
誰もブラッドに近づかなかった。誰もがブラッドの父親のことを知っていた。不動産王にして香港黒社会(マフィア)の顔役のチャン董事長(会長)のことを。
スンウェイだけは別だった。彼もチャン董事長のことは聞いた。だが、スンウェイは両親に政治的公正(ポリティカル・コレクト)という立場を叩き込まれていた。親の職業で子供を差別するなんてとんでもない。
いつも一人でいるブラッドを、スンウェイは見かねた。
スンウェイはブラッドと一緒に昼飯を食い、体育の柔軟体操では二人で組んだ。ブラッドは最初はうるさがったが、スンウェイは良心に従って、ブラッドを追いかけた。ブラッドは鉄道模型なんか好きではないだろうと思いながら。
やがて、スンウェイはブラッドのただ一人の友達ということになった。
ブラッドはリムジンにスンウェイを乗せ、レパルス・ベイのチャン家に連れ帰る。海に面した高台の広壮な屋敷は、サーモンピンクの壁面に沿って椰子が並び、南国ファンタジーに満ちあふれている。だが、守衛室には常時、黒い服の男たちが詰めているのだ。
死んだ母親の代わりに、父親の今の愛人たち……異国趣味を反映して、ロシア人とタイ人……がスンウェイを歓待した。彼女たちは片言の広東語をペチャクチャやりながら、少年たちをお菓子攻めにした。
ブラッドは邪険に彼女たちを追い払い、離れの自分の部屋にスンウェイを連れていった。そこは、成金趣味の母屋とはまったく違う。
信じられないようなインテリア。
黒く塗った壁、バラの模様のヴェルヴェットのソファ。壊れたシタール。鉄製のマネキン。どう見ても十代前半の少年の部屋ではない。
壁一面を、LPレコードのぎっしり詰まったラックが覆っている。旧式のオーディオセットに、大きなスピーカ。
黒い壁には、たくさんのロックスターのポスターやカードが貼りつけられていた。ロックスターたちは、男でも化粧をし、サングラスをかけ、胸の開いたシャツを着ていた。痩せた体をくねらせ、傲岸にスンウェイを見下ろす。スンウェイは、京劇の俳優より汚くて気持ちが悪いと思う。
スンウェイにとっては、ここは別の文化圏だった。鉄道模型やアニメ漫画やツォンシュイのところに帰りたかった。
だが、ブラッドはスンウェイを仲間に入れたがっていた。
「凄いだろう?」
ブラッドは、スンウェイと比べると信じられないくらい大きな目を自慢げに動かした。手をヒラヒラさせ、首をまわす。
「このレコード、誰の?」
「ママの。ママはロックシンガーだったって言ったろ」
スンウェイは嘘だと思っていた。
「ママはクラブで歌ってた。親父が気に入って囲ったんだけど、その時ママは一つ条件をつけた。離れにオーディオルームを作ること。そしてそこだけはママの自由にする。絶対入らないでって。親父は約束を守ったみたいだ。今では僕の部屋だ。やっぱりここには誰も入らない」
ブラッドは腰を振りながら、レコードをセットし、ソファのスンウェイの隣に座る。
針のきしむ音の後に音楽が始まった。薄っぺらい古臭い音質。若い男のプラスティックみたいな気取った裏声。
「カッコいいだろ。デイヴィッド・ボウイの『ジギー・スターダスト』、一九七二年」
「大昔だね」
「大昔さ」
ブラッドは男の甲高い声に合わせて一緒に歌った。
「ここのギターがいいんだ」
黒板をかきむしるようなギターソロ。
「……変な音」
「汚い音だと思ってるんだろ。今にわかるぜ。歌謡曲みたいにきれいな音ばっかり使う音楽より、汚いゆがんだ音の音楽のほうが、本当はきれいだってこと」
ブラッドは変な禅みたいなことを言う。
だけど、レコードが終りに近づくころ、若いボウイが『君はロックン・ロールの自殺者だ』と語り出すころ、突然、スンウェイにもわかった。何てきれいで悲しい音楽なんだろう。
「もう一度このレコードかけて」
「いいよ」
ブラッドは嬉しそうににっこりした。学校にいる時と違い、本当ににっこり笑う。ブラッドの、どちらかといえばいかつい顔つきがやわらぎ、幼い女の子みたいになる。スンウェイがブラッドに感じていた、複雑な家庭の鬱屈した少年という印象が、すべて消えてしまうような笑いだ。
「ダビングしてやるよ。このころのボウイはほんとに最高だ」
スンウェイはブラッドの差し出したものをそのまま受け取った。その日からロクでもない文化に取り憑かれた。
二人とも十三歳だった。午後はいつも『オーディオルーム』に閉じこもり、古いレコードをかけ続けた。
ブラッドの母のコレクションは、ロックの伝統の主流から外れていた。一九七〇年代から、二十一世紀にいたる、もう一つの(オルタナティヴ)ロックの命脈が二人の幼い脳を洗った。
デイヴィッド・ボウイと火星から来た蜘蛛たち、ヴェルヴェットの地下、イギー・ポップと道化たち、ティラノサウルス・レックス、ニューヨークの人形たち、スージーとバンシーたち、テレヴィジョン、リチャード・ヘル、十代のジーザスと宗教的痙攣、死んだ少年たち、死んだケネディ兄弟、キュアー、バウハウス、ジョイ・ディヴィジョン、泡のお城、ギャング・オブ・フォー、殺人ジョーク、ジュリアン・コープと涙の爆発、崩壊する新建築物、ニック・ケイヴと悪い種子、慈悲の姉妹たち、柔らかい細胞、エコーとウサギ男、ジーザスとメアリーの絆、マリーと野生の森の花たち、猫Cの陶酔、浪費した青春、音速の青春、血まみれヴァレンタイン、ミランダの性の庭、怪奇植物トリフィッズ、ニルヴァーナ、PJハーヴェイ、デイジー電動ノコギリ、スリーマイル島の操縦士、極左テロリスト集団バーダー・マインホーフ、………
スンウェイは音が似ているというだけの理由で英語の『スウェル(SWELL)』に、ブラッド(BRAD)は当然のように『BLOOD』に変わった。ブラッドの広東語の本名はどこかに消滅した。
スウェルとブラッドの人生最良の思い出は、このオーディオルームの、過去の非在の文化空間の中だった。引きっ放しのカーテン、生暖かい空気、壁のペンキの塗りムラ、ブラッド好みの毒々しい花柄のタオルケット。チャン一族ならたやすく手に入るマリファナ煙草の煙が、高い天井に向かって渦巻き流れる。二人の間でしか通じない特殊なジョーク。たくさんの空想。
空想を始めたのはブラッドだった。
「スウェル」
ブラッドの声は変わり始めたばかりで、機械を通したように聞こえた。
「二人でバンドをやって、ロックスターになろう。凄く有名な凄いバンドだ。僕はギターを弾く」ブラッドは、母親の形見の、テレキャスター・ギターで、Aマイナーのコードを掻き鳴らした。
マリファナで朦朧とした頭には、ひどくいい考えに思えた。ブラッドのギターも素晴らしい!
「僕はベースを弾きたいな」
「いいよ。ベースだ。だけど、弾きながら歌わなくちゃ。僕は狂ったノイズ・ギタリストになりたいんだ」
未来のバンドの空想は、二人の大好きな遊びになった。
三人編成。ポップでアヴァンギャルドでとにかく圧倒的にかっこいいバンド。
ブラッドのクレイジーなノイズ・ギター、スウェルのクールなヴォーカル兼ベース。サビでは同じマイクの両側から、顔をくっつけるようにして二人で叫ぶ。ドラマーは、ルックス抜群で無口で機械みたいに叩けるやつを雇う。
でもバンドは二人のものだ。スウェルとブラッドは、歴史に残るコンビになる。ジョン・レノンとポール・マカートニーみたいに、ミック・ジャガーとキース・リチャーズみたいに、ダニエル・アッシュとデイヴィッド・Jみたいに。
ブラッドは語り続ける。
「僕らのCDはどこでも売れる。ヴィデオは街頭スクリーンで一日中流れる。パリやロンドンやニューヨーク、カルカッタ、メンフィス、ウランバートル、リオデジャネイロ、アルジェリアのタベルバラやトンブクツーや、とにかく世界中だ。みんな僕たちのTシャツを着てる。レストランに行くと『ヘイ、見ろよ、スウェルとブラッドだぜ』って言われる。ライヴじゃあ、女の子たちはみんなメロメロになって気絶する。ファンが前に押しかけてきて暴動になって二、三人死ぬ」
二人には共通の疑問があった。
僕らはどうして中国人なんだろう。僕らはどうしてイギリスの労働者階級の子弟や美術学生じゃないのだろう?
スウェルとブラッドは親友といえたが、そのつきあいは偏っていた。二人はロックバントの話ばかりしていた。家のことや学校のこと、それに、この年ごろの男の子たちなら一番興味があるはずの女の子のことも、一切話題に上らなかった。
スウェルは、ブラッドともっと色々な話をしたかった。だけどブラッドは、日常生活すべてを無視したがっていた。
スウェルが知っているブラッドの精神生活以外の生活は、色々な事実の断片だ。
夜七時にオーディオルームの扉の外にひっそりと置かれている夕食。無言の使用人。守衛室で、深々と頭を下げる黒服の男たち。専用の電話、専用のバスルーム。
八時ごろ、スウェルはチャン邸を辞し、ブラッドがバス停まで送っていく。二人でバスを待っている間、ブラッドは恐ろしく寂しそうだ。明日もまた学校で会えるというのに。
発車する赤い二階立てのバスの座席で、スウェルは外を振り返る。街灯に照らされたバス停に、ブラッドの頼りないシルエットがいつまでも立ち尽くしている。
多分、ブラッドは明日再びスウェルに会うまで、もう誰とも話をしないのだ。
「今度の土曜、泊まりにこいよ」
ブラッドはいつもそう言う。
スウェルは母親に頼み込み、何度か、週末にブラッドの部屋に泊まった。ブラッドは本当に嬉しそうだった。
二人はベッドに寝転がったまま、朝の四時まで興奮して喋りまくり、やがて、岩山に住むネズミ科の小さな哺乳動物みたいに、くっつきあって眠る。
スウェルはブラッドの部屋に入りびたっていたが、逆に、ブラッドがスウェルの家を訪ねたのは一度だけだ。
スウェルの十四回目の誕生日。スウェルの母のリャン夫人が、芝生の庭で紅茶とケーキをふるまう。招待客はフー・ツォンシュイとブラッド・チャン。
ツォンシュイは水色のギンガムチェックのワンピース、長いまっすぐな髪。
ブラッドは黒地に赤いバラの女もののブラウス。もつれた髪は肩まであり、ピアスをしている。ウォン家の庭には、今までにたくさんの客が訪れたが、ブラッドはその中でも新種の人間だった。リャン夫人はかすかにとまどい、ツォンシュイは怯えていた。
ブラッドはかなり礼儀正しくふるまった。だけど、オーディオルームでの饒舌やへんなユーモアや派手なジェスチャーは消え、萎縮しているように見えた。
スウェルは、親友と婚約者の顔合わせが失敗だったことを悟った。
ツォンシュイは機関車の模型をプレゼントしてくれた。スウェルは子供のころ、機関車が大好きだったのだ。だけど、スウェルの子供時代は終わっていた。
ブラッドのプレゼントは銀の、雨粒の形のイヤリングだった。本物のシルヴァー。ロックスターがつけるようなやつ。
「ブラッド」
リャン夫人が困ったような顔で、それでも優しく言った。
「これは、あなたたちの年でプレゼントするには高価すぎるわ。気持ちは嬉しいけど、スンウェイは受け取るわけにはいきません」
スウェルはブラッドが怒り出すのではないかと思った。
「すいません。奥さん、じゃあ持って帰ります」
ブラッドは穏やかに包みを取り戻した。
その後、二度とブラッドはスウェルの実家に行こうとしなかった。
イヤリングは、翌日、オーディオルームで手渡され、スウェルの机の引き出しの奥深くにしまわれた。「君のうちは実に中産階級的だな」
ブラッドは中学生のくせに、こういう口のききかたをする。
「フー・ツォンシュイは本当に婚約者なのか?」
スウェルはうなずく。
「マジ?」
ブラッドは色の濃い唇を歪め、舌を出し、思い切り変な顔をした。
「あの子、銀行のポスターみたいな子じゃないか。『公共料金の引き落としは当銀行で』とか書いてある横でにっこり笑ってるって感じ。結婚するならリディア・ランチかなんかにしてよ」
「やめろ。君にそんなことを言う権利はない」
ブラッドは明らかに傷ついた顔をした。
スウェルもそうだった。ブラッドに自分の平凡さをみせつけたような気がしていた。
ブラッドはマジでロックスターになれるかもしれない。だけど、スウェルはいくらサブカルチャーに耽溺しようと、しょせん優秀な官僚とか新聞記者とかのほうが似合っている。
2
十六歳になると、ブラッドが消えた。
ブラッドはサンフランシスコに行った。香港の自治権もいずれは消える。その時、外国とのつながりが堅いほうがいい。チャン董事長は、五人いる息子のうち妾腹の二人に、海外の教育を受けさせることにしたのだ。
サンフランシスコと香港で、毎週末に続けられた長距離電話のやりとり。
「ヘイ、スウェル。ベースは練習してるか? 僕はバンドを組んだ」
「どんなバンド? 何人?」
「四人。つまんないバンドだよ。もちろん本当のバンドは僕らのバンドだ。それの訓練だ」
「サンフランシスコはどうだい」
「どうせチャイナタウンに住んでるからなあ。でもヘイト・アシュベリーのライヴハウスにはたまに行く。こないだジョン・スペンサーを見たよ」
「うわ、いいなあ」
「いいかな。畜生、あのオーディオルームに行けなくて寂しいよ」
……
「ヘイ、スウェル。大学は同じところに行こう。君んち、余裕あるだろ。一人っ子だし。成績はまだいいんだろ?」
「まだいいよ。まだトップクラスだ」
「ケンブリッジか、オックスフォードか、ハーヴァードか、サン・ノゼ州立大学か」
「バークレー音楽学院じゃないのか」
「ロックスターはマトモな音楽教育を受けちゃダメなんだよ」
受話機の双方でクスクス笑い。
「学科はどうする。僕はジャーナリズムを専攻するつもりだけど」
「僕は法学部。親父は息子の一人を弁護士にしたいらしい。チャン一族御用達の悪徳弁護士。それなら学費を出してくれるってさ」
「ロックスターはどうした」
楽しい妄想。
「オーケイ、スウェル。もちろんなるさ」
……
「カリフォルニア大学はどうだ?」
「ブラッド。香港大学じゃダメか?」
「香港大学? どうして? 中国から出ようぜ、スウェル。それとも親が何か言ってるのか」
「両親は留学に賛成してる。ただ、ツォンシュイが……」
「あの婚約者? まだ婚約者なのか?」
「彼女が不安がる。彼女と……やっちゃったんだ」
「ふうん」
退屈そうな声。無神経な言葉が続く。
「マジで結婚するなら五十年も一緒に暮らすんだぜ。四年くらいいいだろ」
「時々、君は本当にわかってないと思うよ」
スウェルの怒りに満ちた、突き放すような声。ブラッドは一瞬黙る。
「スウェル。ごめん、そういう意味じゃない。そういう意味じゃないんだ。……考えてみてくれよ。香港が中国のものになった時、君が外国でつぶしがきくほうが、ツォンシュイだっていいだろ。また文化大革命みたいなことが起こらないとはいえないし、……人民解放軍に夜中に踏み込まれるなんてまっぴらだ」
「ああ」
「僕らみたいに毎週電話をすればいい。飛行機に乗れば会えるんだし……、いや、そんなことはいい。スウェル、君だって本当は留学したいんだろう? 中国から逃げたいんだろう?
スウェル。僕たちのヒーローたちのことを忘れるな。せめて四年くらい、二人で好きなことをやろう。本当にロックスターになったっていいんだ」
うわずった返事。
「オーケイ、……オーケイ、ブラッド」
3
十八歳で、スウェルとブラッドはロサンジェルス空港で再会する。
ベースのケースをかつぎ、トランクを引きずったスウェルは、痩せて、肩の張った、ロックスター向けの体型になっていた。だが、顎の細い、つり上がった目と小さな薄い唇のすんなりした顔は、小ぎれいに整いすぎ、上品すぎた。どう見ても育ちのいい前途有望な若者だ。ただし、耳には銀の雨粒型のイヤリング。ブラッドのプレゼント。
「ヘイ、スウェール」
軽薄なわざとらしい呼び掛け。ゲートの向こうでブラッドが手を振っている。一瞬、スウェルは誰か本物のロックスターが立っているのかと思う。
ブラッドは、どうみてもカタギに見えなかった。サングラス。こけた頬、生々しい唇。まともにボタンをかけていない、ペイズリー柄のシャツ。張りつくような皮の細身のパンツ、ドク・マーティンのブーツ。十八歳にしてアンダーグラウンド・カルチャーの信徒という立場が、完全に板についている。
スウェルはトランクをガラガラ言わせながら、親友に駆け寄った。……畜生、メチャクチャカッコいいぞ、ブラッド。
ブラッドが英語で叫ぶ。
「さあ、新世界にようこそ。バンドを作ろう! そのシックでクラシカルでエレガントな小さい口にマイクをくわえるんだ!」
カリフォルニア。太陽と反体制文化の土地。香港の若者二人が何をしようと、誰も気にも留めなかった。二人は怠惰になり、好き勝手に暮らした。眠りたい時に眠り、食べたい時に食べる。
変なサンダル、変な柄の女もののシャツ。ブラッドの黒いペディキュア。靴を履いたままベッドに潜る。風呂は三日に一度、洗濯は一月に一度くらい。テイクアウトのピザやタコスの紙袋が床に投げ捨てられる。
再び、オーディオルームの日々。もうスウェルは帰らなくていい。二人の借りたラ・ブレアのアパートメントは、ブラッドが調達してきた安物のけばけばしいインテリアで埋められる。たくさんのコンパクトディスク。バンドの機材。午前二時に大音響で流されるセンチメンタルなロック音楽。
ただ、今度は二人とも空想を現実に移すのに十分な年になっていた。ドラマーを探し、すっかり弾けるようになったギターとベースを抱え、クラブに出演する。
ブラッドはギターにディストーションを何台もつなぎ、ノイズを出し始めると止まらなかった。スウェルの声。初めは、ルー・リードの広東語訛りのコピーだった。それがいつの間にかどうしようもなくスウェル自身になる。つまり、過去のスターたちの情熱と過激さの、とてもオリジナルなブレンドに。あるいはクールなパロディに。
最初のドラマーは、日本人留学生のカズオ。カズオは英語が下手で、二人のいいなりになるところが良かったが、いずれにしろ弱すぎた。次は、メキシコから来たホセ・フィリップ、音はバカでかいが、すぐにテンポが走るし、ロックドラムというよりサンバみたいになる。
そのあとは、メイン州出身のヴィンス。可もなく不可もなし……しばらく二人はヴィンスで我慢することにした。
ウエストハリウッドの汚いクラブの有名人になる。ファンが一ダース、二ダース。
夜十時から始まるライヴ。こぼれた酒でべとつく床、青白い照明のあたる狭いステージ。
ブラッドがギターを弾いている、ギターを酷使している、顎から汗が滴る、うつむいてノイズの中に入り込んでいる、肩を揺する、髪の毛がバサリと垂れる、凄くクール、右手を上げ、コーラスする『歴史から逃げろ!』。
ヴィンスがスネアを乱打する。
そして自分、スウェル。ベースの太い堅い弦で十六分音符の裏をはじき出しながら、うわずった声で歌い続けている、パンクとロックの精神に奉仕、体を揺する、滑らかな蜂蜜色の肌、小刻みに痙攣している、大きく息をつぐ、……
スウェルは自分の体からエネルギーが流れ出し、観客をつかまえるのを感じる。
無視していたオーディエンスももう彼らから目を離せない。飢えたような瞳がスウェルとブラッドの一挙一動から啓示を引き出そうとする。狭いクラブに詰まった聴衆の半分はスウェルかブラッドか両方と寝てみたいと思っている。本当はもっとそれ以上のものを二人から奪いたいのだが、どうしていいのかわからない。
スウェルの体は自然に動く。スウェルは激しく上半身を揺すりながら、奇妙な静けさの中に落ち込んでいる自分に気づく。まるで自室でミュージックヴィデオを見ているみたいに冷静に、自分自身を観察しているのだ。
凄いな、俺はまったくロックスターみたいに行動している。
こんなふうに感じるのは、間違っているのだろうか、何か純粋さを損ねているのだろうか?
4
マス・コミュニケーション論のレポート書きとバンド活動の合間に、スウェルは香港の婚約者に電話する。
「スンちゃん。元気? 今日ね……」
ツォンシュイの雑事の報告。買った洋服、家族で行ったレストランの名前、テストの成績、友達の彼氏の話。
児童教育を学べる学校に行きたいというツォンシュイの希望。離れていることの不安。単調で退屈な会話。ツォンシュイはスウェルがカリフォルニアのチアリーダーと浮気するんじゃないかと疑っているらしい。それともブラッドに売春宿に連れていかれるとか。退屈な会話。
ドアを通して、ブラッドのギターの音が聞こえる。
翌年、スウェルとブラッドが十九歳の夏。
女子大に入ったツォンシュイが、ロサンジェルスに遊びに来ることになった。
ブラッドの運転で空港に向かう。紫外線をたっぷり含んだ強烈な日光、ポスターカラーの水色の空。
車は、頑丈なだけが取り柄の古いセダン、オールズモービル・カトラス・シュープリーム。ブラッドは、望めばポルシェやアルファロメオに乗ることもできるはずだが、スウェルがそう指摘しても、『アホらしい』としか言わない。ブラッドは『世界の一流品』が嫌いなのだ。
「結局ウチに泊まるのか?」
窓を全開にし、窓枠に肘をかけ、片手でステアリングを雑にまわしながら、ブラッドが言う。
「いいだろう?」
「いいけどさ。僕の物は触らないように言ってくれよ」
ブラッドはツォンシュイをまったく評価していない。
「僕の好みは、グラマーでゴージャスな女だ。整った美人より、アンバランスでワイルドで、メロンみたいなおっぱいで、僕をにらみつけるような女がいい」
「それは、おっぱいをつけた君自身じゃないか」
ブラッドは鼻で笑い、空港の進入路に車線を変える。
ツォンシュイはロサンジェルス空港のゲートで、不安そうに待っていた。
ツォンシュイは小柄で華奢だ。スウェルもブラッドも決して長身ではないが、その二人と比べても、頭一つくらい低い。白いブラウス、ハートのネックレス、紺に白の水玉のフレアスカート。鈴のような声で話す。ちょっと眠そうな目の、クセのない美少女。
スウェルとブラッドに挟まれたツォンシュイは、ヤクザなロック青年に拉致されたアイドル歌手みたいに見える。
ツォンシュイは二週間二人のアパートに滞在した。初め、彼女は気違いじみたインテリアや、ブラッドのファッションやスウェルの伸びた髪などに驚いていたが、すぐに慣れたようだった。ブラッドがそれをツォンシュイの感受性の欠如だと考えていることが、スウェルにはわかる。
けれどブラッドは、五年前の誕生日パーティと同様、礼儀正しい。ツォンシュイのために車のドアを開けてやるし、荷物も持つ。お喋りもする。
「教育学部なんだよね……」
「ええ」
「先生になるの」
「うん。小学校の先生になるつもり」
「子供、好きなの」
「うん、大好き。可愛いじゃない? 天使みたい。チャンさんは……ブラッドは、子供、好きじゃないの?」
「うーん、子供によると思うよ」
「もちろん、いろんな子供がいるわ。あたし、みんなの個性を伸ばしてやれるような先生になりたいの。カウンセリングの講座も取ってるのよ」
スウェルは端で聞きながら、ブラッドが得意の皮肉なコメントを入れるのを待った。(じゃあ、犯罪者タイプはその犯罪的資質が花開くように君は努力するってわけだ)とか何とか。
ブラッドはにこにこしながら、『ふうん』とだけ言った。
ブラッドはツォンシュイに出血的大サーヴィスを行っていた。ツォンシュイの好きなビートルズを弾いてやるし、特製オムレツを作ってふるまう。
カトラスにツォンシュイとスウェルを乗せ、ハリウッド・ブールヴァードを流し、バカみたいにディズニーランドにのりこむ。ミッキーマウスの帽子を被っておどけるブラッドに、ツォンシュイは笑い転げる。
どうなってるんだ、とスウェルは思う。まあ、ブラッドがツォンシュイに優しいほうが、確かにありがたいが。
とはいえ、三人の生活はぎこちなかった。
例えば、スウェルが図書館で本を借り、アパートメントに戻ってくる。
ブラッドはソファで単調なギターの運指練習に没入している。ツォンシュイはダイニングテーブルでソワソワしている。スウェルの顔を見ると明らかにホッとした表情になる。
多分、ツォンシュイはブラッドに怯えている。二人きりの時、ブラッドが立ち上がり、ツォンシュイを床に引きずり倒したら、彼女はああ、やっぱりと思うはずだ。
「おかえり、スンちゃん」
「ヘイ、スウェル」
ツォンシュイとブラッドが同時に言う。
それぞれスウェルの別の部分に対応する親友と恋人。
香港、同じ年の秋。
フー・ツォンシュイは友達の友達のアレックス・ヤオという男と知り合う。アレックスはツォンシュイより七つ年上で、日本企業のために働いていると言っていた。物腰は優雅で言葉の端々に教養が感じられた。紺のスーツがよく似合った。
最初、ツォンシュイは感じのいい人とだけ思った。アレックスは、はじめはやんわりと、それから熱情的に、自分が恋をしていることを語り出した。
相手がツォンシュイだということも。
スウェルが二十歳の誕生日を越した翌年の初め、ツォンシュイの電話が、長い婚約の解消を告げた。
他の人と結婚の約束をした、と言った。
「どうしたの」
雑誌を読んでいたブラッドが顔を上げ、電話を切ったスウェルに訊いた。動揺が、露骨に表れていたらしい。
「……ツォンシュイが他の男と結婚するって」
「ふうん」
ブラッドの声は無関心だった。驚きも何も浮かんでいなかった。皮肉もなし、慰めの言葉もなし。すぐに、週刊LAのチャック・デスの漫画に戻る。
スウェルは何かおかしいと思う。
「ブラッド。何か知ってるのか」
「何か? どうして僕がツォンシュイのことを?」
スウェルは数日悶々と過ごした後、ツォンシュイの母親に電話をする。
「ああ、スンちゃん。ごめんなさい、ごめんなさいね」
おろおろした声。
「相手はどんな人なんですか」
「日本企業で、香港対象の宣伝を企画しているって言ってたわ。わたしたちもその人のことを調べたの。確かに、トーカイ電機に勤めている。だけど、何だか変なの……。
ヤオさんは会社にほとんど行かないし、行っても新聞を読んでコーヒーを飲んでいるだけ。興信所の職員によると、ヤオさんがトーカイ電機に勤め始めたのは、去年の夏から。ヤオさんをツォンシュイに紹介した友達も、彼と知り合ったのは去年の夏だと言うの。その前のことはよくわからないのよ。日本の大学に留学してたって本人は言ってるけど、それも怪しいわ」
ああ、ものすごくへんだ。去年の夏。
「ツォンシュイはヤオさんに夢中になっていて、わたしたちの話なんて聞こうともしない」
去年の夏。ツォンシュイがカリフォルニアに来た夏。
「スンちゃん、ツォンシュイを見捨てないで。今度のことは、一時の気の迷いよ。今にやっぱりスンちゃんが一番だって気づくわ。わたしも主人もあなたを息子だと思っているのよ」
ブラッド。
スウェルはのんきにどこかから戻ってきたブラッドを、ダイニングテーブルに座らせ、自分は立ったまま、尋問を始める。
「アレックス・ヤオを知ってるか」
「知らない。パブリック・スクールのクラスメイト?」
「ツォンシュイの新しい婚約者だ」
「そんなやつを僕が知ってるわけないだろ」
「トーカイ電機は?」
「日本のメーカーだろ……」
「アレックス・ヤオさんが勤めてる。一週間に一日か二日、十一時くらいに出社して、新聞読んでコーヒー飲むのが仕事らしい」
「……素晴らしい仕事だな」
ブラッドが笑いかけるのを、スウェルはにらみつけ、言葉を続ける。
「経済新聞のバックナンバーを検索した。トーカイ電機の株の大部分は、フォンホイ不動産とかいう会社のものらしいじゃないか」
ブラッドが、かすかに口元を歪ませる。フォンホイ不動産は、チャン董事長の持ち会社の一つだ。
「君がやったのか、ブラッド」
「やったって、何を……」
スウェルはテーブルを蹴る。普段はこんなことをしない。二人の間に暴力が介在したことは一度もない。
ブラッドは狼狽している。
「アレックス・ヤオは君が使ってるんだな」
「……」
「答えろ、ブラッド」
スウェルはブラッドの肩を乱暴に掴む。ブラッドは困りきった表情のまま、舌打ちした。
「そうだ」
ブラッドの態度がふてぶてしく変わる。
「アレックスは、職業的なスケコマシだ。僕は一年間彼と契約した。ツォンシュイと婚約までいけって」
「どうして」
「あの女には我慢できない。あの女はものを考えたことがない。自分と他人の区別もつかない。みんなが正しいと言ったことをそれが正しいと思ってる。何が児童教育だ。他人を導こうなんて考える前に、自分のことを考えろ」
「ツォンシュイは俺の婚約者だ。どんな女だろうと君に関係ない」
「あるね。君があんな低俗な女に消耗されるのは見てられない」
無言のにらみあい。
「……だから結婚詐欺師なんかを使ったのか」
「アレックスは一流だよ。ツォンシュイはラッキーだ。一年間、最高の思いが味わえて、しかもその後、人間的に成長できるチャンスが与えられる」
「へんなジョークはやめろ」
「子供時代の約束で、あんなくそバカでがちがちの女と結婚したいのか」
スウェルは鉄板の入ったブーツを振り上げ、ブラッドの椅子を蹴り倒した。身のすくむような大きな音とともに、ブラッドはコンクリートの床に転がり落ちる。
「ブラッド、おまえはやっぱり黒社会の人間だよ」
ブラッドは倒れた椅子の横で、床に這ったまま、スウェルを見上げる。
「ああ、そうだよ。だから忘れるな。本当は、もっとひどいことができたんだ。ツォンシュイの首に値段札をぶらさげて、上海の地下でセリにかけたって良かったんだ」
スウェルは借りたヴァンに荷物を積み込み、別のルームメイトと住み始める。ブラッドはますます増えるコンパクトディスクに埋もれながら、同じアパートに一人で暮らした。
それでも、スウェルとブラッドのバンドは続く。こんな楽しいことがやめられるわけがなかった。
小さなインディペンデント・レコード会社からシングルCDを出し、地元のミニコミ紙のインタヴューに韜晦に満ちた適当なことを喋り散らす。
ファンも増える。三ダース、四ダース。
演奏後のクラブのバーカウンターで、青い目を潤ませて熱っぽい賞賛の言葉を囁き続ける、金髪のハリウッドエキストラ女優。『僕を食べて』と書いたカードを挟んだバラの花束を差し出す、十五歳くらいの少年。スウェルのアパートメントの前の植え込みに一週間も隠れていた痩せた少女。スウェルとブラッドに捧げる詩集を作った詩人兼消防士の青年。
ファンが百人を突破したころ、スウェルもブラッドももうこれが限界だとわかった。
理由は単純だ。二人ともソングライティングの才能がなかったのだ。もちろん、なんとか曲は作れる。悪くないものもある。ギターのセンスや歌唱力で聞かせることもできる。
だが、二人の曲には特別なところがなかった。ライヴでならともかく、録音した彼らの音楽はノイジーなBGMにしかならなかった。
二人は、自分たちの欠陥をよく知っていた。
スウェルもブラッドも二十一歳になっていた。勝手なことができる期限は、あと一年しかなかった。「来年で終りだよ」
スウェルは言った。深夜カフェのみすぼらしいプラスティックのボックス席。
「アメリカの新聞社か通信社に就職する」
「それで。僕らのバンドは、クリスマスパーティの余興だけになるわけだ」
「そうだよ」
「いやだ」
ブラッドはいらただしげにコーヒーをかきまぜた。
「僕はロースクールになんか行きたくない。悪徳弁護士なんてごめんだ。僕の成績がどれだけ滅茶苦茶か知ってるか」
「だったら、別の仕事に就けばいい。何なら、君は働かなくたって大丈夫だろ」
「僕はバンドをやりたい。僕らのバンドを続けたいんだ」
「僕らに才能はない。君だってわかってるんだろ」
「才能? 僕はアーティストだなんて言ったことは一度もないぞ。ロックスターになりたいだけだ」
どうしてこいつは臆面もなくこんなことが言えるんだ?
「……なってどうする。恩啓(ユンカイ)君。どうして」
忘れかけていた本名で呼んだスウェルに冷たい一瞥を寄越してから、ブラッドは率直に、不道徳に言う。
「有名になりたい。エゴを膨らませたい。たくさんの人間の感情を操るのは楽しい」
どうかしている、そう思うスウェルの顔を、ブラッドはにらむように見ていた。「君は、ハンサムで、才覚がある。小作りでお上品な口で、うまく世の中を渡っていけるだろうさ」
ブラッドの執念はどこからきているんだ?
スウェルはツォンシュイの事件以来、しばしばブラッドのことを考える。ブラッドがどういう人間なのか、本当には知らなかった。……あるいは、ブラッドが『他人』だということを初めてはっきり意識するようになった。
毎夜、自室のドアの向こうから漏れる、現在のルームメイトがつけている衛星放送のスポーツ中継の騒音を聞き流しながら、ベッドに横たわり、ブラッドの性格と精神を勝手に分析する。
……あいつは普通のことがわかっていない。あいつは子供っぽい。
素敵な親友で共犯者だったブラッド。今でも親友で共犯者だが、スウェルには前と違う感情がブラッドに対して芽生えている。かすかな嫌悪と軽蔑、そして恐れだ。
……あいつはまともな大人になるのを嫌がり、ロックスターになんかなりたがっている。
俺たちは中国人なのに。才能もないのに。ただのロックオタクなのに。
俺は多分、あいつの唯一の本当の友達だけど、あいつは俺のことを自分の従僕か付属品かなんかだと思ってる。
だから、俺がブラッドの趣味に合わないことをすると、平気ではいられなくなる。俺が『ブラッドのスウェル』でなくなるのが不安なんだ。ブラッドは子供のころ孤独だったから、親しい人間に見捨てられることが怖くてしようがないんだ。
(……ブラッドが聞いたら怒り出すだろうか? それとも傷つくか、鼻で笑うか?)
あいつは、何でも自分の思い通りにしなければ気が済まない。いざとなったら、ツォンシュイの時みたいに、ひどい強引なこともする。……あいつは、『特殊』な環境で育ったから……(もちろん、こんなことは言ってはいけないことだけど)。
眠りに近づくにつれ、スウェルの思考は、ブラッドというキーワードのまわりを、とりとめもなく流れていく。
あいつはマザコンなんだ。若くして死んでしまったきれいでかっこいい、パンク歌手のブラッドのママ、レイチェル。暗いもの、激しいものを偏愛したレイチェル。アンドリュー・エルドリッチ……とんでもなく背が高く黒ずくめで、異次元のラジオ放送みたいな声の、七か国語を話すヴォーカリストのグルーピーだった、十代の家出少女のレイチェル。俺とブラッドの趣味は、もともとは彼女から受け継いだものだ。
ブラッドはロックスターになって、有名になって、レイチェルの復讐をしたいんだろうか。シンガーとして失敗し、香港に流れ、マフィアの情婦になり、アルコールで自滅したレイチェルの。子供のブラッドにギターを教えたレイチェルの。
それともレイチェルのヒーローたち。レイチェルが寝たかもしれない、忘れ去られた、なかったことにされてしまったミュージシャンたちの復讐を。
二十世紀末のどこか地下のステージの上に、凍りついたまま埋められた死んだミュージシャンたち。イアン・カーティスとピート・デフレイタスとスティーヴ・ベイターの復讐を。
スウェルの知らない、ブラッドの感情。情熱。情念。
そしてブラッドは、いざとなったら、ひどく強引なことをする。
6
深夜の電話がけたたましく響く。ブラッドが興奮した声で叫んでいる。
「スウェル。すぐ来てくれ。今すぐ。凄いものがあるんだ」
スウェルは、中古のシビックのエンジンをかけ、ウエストウッドからラ・ブレアのアパートへ、通い慣れた道を走る。
ブラッドが、一本のカセットテープをスウェルの目の前につきつける。
「何それ」
「まあ聞けよ」
ヒスノイズ。しばらくして、遠くからかすかにアコースティックギターの音。ブラッドが音量を上げる。
素朴なギターの弾き語り。呟くような男の声。
「ドイツ語だな」
「ドイツ語だよ」
二人はしばらく黙って聴いた。いろんな感情が呼び起こされた。いらだちや失望や寂しさや切なさや悲しみ。甘い憂鬱、甘い悲しみ。
曲は単純だった。簡単なコードしか使っていなかった。だが、それが、どうしたわけか信じられないほど素直に二人の中に染み透ったのだった。
「どうしたんだ、これ」
「作者はガビ・ヴァイスとかいう名前。彼はどこかの刑務所か精神病院か何か、そういった施設にいる。彼は、こんな凄い曲をゴロゴロ作りながら、発表できない」
「どうやって手に入れたんだ」
「親父の息がかかってる芸能プロダクションに、まわってきた。ロシアの文化省の役人が持ち込んだらしい」
「ロシア? ドイツ語なのに?」
「さあね。そこから先は謎だ。とにかくここにこういうテープがある。ヘル・ヴァイスが新しい曲を録音するたびにそのテープは送られてくる。条件は、得た金の十五パーセントを彼のいる『施設』に寄付すること」
ブラッドはソファに座ったまま、スウェルを見上げている。スウェルは唾を飲み込む。
「……このテープを、そのプロダクションでCDにするのか」
ブラッドが鋭く言う。
「いい加減に、ものわかりの悪いふりはやめろよ」
もちろんスウェルにはわかっていた。ブラッドが自分たちに欠けていたものを探してきたのだということを。
「いくらガビ君に凄い才能があったって、こんなチャチな録音の、フォークギターの弾き語りを誰が聞く? こいつがビルボードの一位になると思うか?」
ブラッドがたたみかける。
「僕たちが、こいつを完璧なアレンジで出す。もちろん、僕らの曲だ。みんなが得をする……曲は世に出る。オーディエンスは感動する。プロダクションは儲かる。ガビ・ヴァイスの施設は潤い、彼の待遇は良くなる。そして僕らはロックスターになる。
もう道はつけてある。香港のプロダクションが、僕らのエージェントをやってくれる。デモテープとヴィデオができ次第、僕らのことをCBSに正式に打診するそうだ。水面下では、ほぼオーケイらしい」
ブラッドの見事な手際とコネクション。スウェルに感心する余裕はない。
怖かった。
「……盗作なんてまっぴらだ」
「僕たちはアーティストじゃない。スターだ、スウェル。ギミックはつきものだ。僕はどんな汚い水でも飲む」
スウェルはブラッドを見下ろした。ブラッドの良心の無さを、悪ヘの親和を。ブラッドは表情も変えない。
「降りたいのか、スウェル」
「君は別の人間を捜せばいい。僕みたいに地味な優等生ヅラじゃなくて、もっとゴージャスなやつを。君はいつもそれで文句を言ってたじゃないか」
「降りたければ降りろ。だけど、絶対後悔するぞ」
ブラッドが断言する。
本当に、後悔するだろうか。
スウェルは未来を幻視する。
三十歳のウォン・スンウェイ。午前一時の新聞社のオフィスで、銀行の新しい投資先についての記事を書き続けている。
大統領候補にインタヴューする四十歳のウォン・スンウェイ。BMWで、郊外の家に帰る。社内結婚の美しく知的な妻、可愛い子供。
時折思い出す過去のヒーローたち、ベースの弦の感触。浮気相手の女の子に語る歴史物語。僕も若いころはバンドをやっていてウエストハリウッドじゃちょっとしたものだった。あの『……』のギタリストのブラッド・チャンとやってたんだ……ええー、信じられない、あたし、ブラッドの大ファンなの。
いやだ。そんなのは。
スウェルは急に現在に、二十一歳の自分に戻る。ブラッドが大きな目で見つめていた。
「……僕はこんなことには耐えられない」
「オリジナリティなんて、そんなに大切か? 剽窃がそんなにまずいか? 本当に心の底からそう思ってるのか? 君の親はそう叩き込んだかもしれないけど……」
「どうせ中産階級だ。君と違って。僕は君とは違う」
「汚い仕事は全部僕がやってやってるじゃないか!」
ブラッドが激昂する。ディストーションをかけたギターみたいな声で怒鳴る。
「畜生、スウェル、この偽善者のクソ野郎。どれだけ自分がツォンシュイの前でうんざりした顔をしてたか、まさか気づいてないんじゃないだろうな。僕が弁護士になる話をすると、必ずロックスターの夢を持ち出したのは君じゃないか。ああ、畜生! パブリック・スクールで僕の後をついてまわったのが、僕が一人で可哀相だったからだなんて言うなよ。君は同級生の坊っちゃんたちがイヤでたまらなかったんだろ」
機関銃掃射の並みの攻撃。スウェルは絶句する。スウェルはいつでもブラッドに引きずりまわされる側だったのに。
「自分のほうこそ僕に引きずりまわされてたとでも思ってるんだろ」
ブラッドが一語も違えずに言いあてる。
「確かに僕がオーディオルームに連れてった。ジギー・スターダストを聴かせたよ。だけど、その他はいつも僕は君の望むことを積極的に進めただけだ。留学も、バンドも、ロックスターになることも。君はなしくずしに僕の言いなりになる振りをして、全部自分の思うようにしてきたんじゃないか。僕は君に会わなきゃ、多分、立派な悪徳弁護士になってたぜ」
ブラッドはリモコンをオーディオに向ける。再びガビ・ヴァイスのテープが始まる。不幸な天才の、シンプルで切ない歌。何もかも持っていたスウェルとブラッドが、決して持っていなかったものを持っているガビ。
彼の声は男にしてはかなり高い。汚れたボーイソプラノ。
「ガビ・ヴァイスの声は君に近い」
「僕の声のほうが人工的でにせものっぽい。僕の歌い方のほうが大ゲサでインチキくさい」
スウェルは抑揚をつけずに言う。ブラッドの言葉が、腹の中で不快な塊になっていた。スウェルが考えてもみなかった種類の指摘。ブラッドの観察は正しいのか?
スウェルは自分の心の洞窟にたどりつこうとあがいた。何が嫌だったのか。本当は何が欲しかったのか。子供のころ鉄道が好きだったのは、ヴィクトリア・ピークの家から逃げたかったからなのか。
一つだけ確かなのは、ブラッドが本質的にはひどく実直な人間だということだ。そして鋭利だ。ブラッドは、人の心の汚いものもきれいなものも、ただありのままに見る。
「僕は君の歌のほうが好きだ」
ブラッドがすがるように見上げる。
「スウェル。君がいい。スウェルとブラッドでなくちゃダメなんだ」
「……しばらく考えさせてくれ」
「だめだ。今決めろ。今すぐ決めろ」
ブラッドが無慈悲にうながす。
「そんなに新聞記事が書きたいのか」
スウェルは『未来』を思い出す。いやだ。いやだ。もうウォン・スンウェイには戻らない。
「……オーケイ」
その後、一転してお祭り騒ぎになる。ブラッドは酒瓶だらけの冷蔵庫を足で開け、テキーラをコップ半分まで注ぎ、コークをぶちこむ。泡立ったコークがタイルのキッチンカウンターにあふれる。濡れたコップをスウェルに手渡す。
何度も続く乾杯。
「スウェルとブラッドに」
「ガビに」
「次のドラマーに。ヴィンスはクビだ」
オレンジ色の間接照明だけの暗い部屋。ソファに座っていたのが、いつの間にかべったり床に尻をついている。二人の胃には、既に大量のアルコールが流し込まれている。
もう何もかも、知ったことじゃない。誠実さを不誠実に演じなくていいというのは何て素晴らしいことだろう。
酔ったブラッドが身を乗り出し、スウェルの顔をのぞき込んだ。
「スウェル。一つだけ足りないことがある。わかるか」
ブラッドのギターだこのある左手が、スウェルの頬骨の出た、滑らかな頬に触れる。
「僕のシックでクラシカルなルックスかい」
「ああ、君のツラだよ。まあ、わりとハンサムだと思う。僕もその顔は嫌いじゃない。だけど、何か足りないんだよ。上品すぎるんだ。演出方法を考えなきゃ」
スウェルはよろけながら手鏡を取り、ブラッドと一緒に眺める。
ブラッドのえらの張った、頬のこけた輪郭。よく動く丸い目。変に目立つ赤い肉厚の唇。整ってはいないが、風変わりな魅力はある。
スウェルは自分のルックスがブラッドに比べてまともすぎるのは知っていた。東洋的な淡泊な顔。スウェルは自分で分析する。
「口が薄いんだ。それに小さすぎる。だからセクシーじゃないんだ」
「大きかったらどうなるんだろ」
ブラッドがマジックを取ってくる。クスクス笑いながら、口の端に線を描く。左右に五、六ミリずつ。
ブラッドが口笛を吹く。
「何か、カッコいいな」
確かに、別人のようだ。鏡の中のスウェルは鱗を脱いだ蛇みたいに見える。目が光る。
「ブラッド、口を切ろう」
「整形外科に行くのか?」
「医者なんてクソくらえ。今すぐだ。君が切るんだ」
ブラッドが目を剥いた。
「おい、マジか」
「マジだよ。たった五ミリずつだ。失敗したら医者に行けばいい。パンクでいいだろ」
「パンクって……」
スウェルは、呆然としているブラッドを置いたまま台所に向かい、大声で尋ねる。
「ナイフはどこだっけ?」
果物を切るナイフ。消毒液。血止めに使う切り裂いたTシャツ。切った部分がくっつかないように噛ませる小さな金の板……ブラッドのピアス。
これだけ用意し、スタンドの明りを近づけても、ブラッドはまだ戸惑っていた。酔いはすっかり覚めているようだった。
「やろう、ブラッド」
スウェルは言う。妙に落ち着いていると自分でも思う。凄く自由な感じがする。
「やるんだ、ブラッド」
スウェルは初めて口に出してブラッドに命令する。スウェルは今では、誰がリーダーかを知っている。
ブラッドは刃渡り十二、三センチほどの、優美で機能的なナイフに消毒液をかける。手が震えている。マフィアの息子のくせに。
ブラッドはナイフを持ったまま、深呼吸をする。ブラッドの左手が、スウェルの頭に置かれる。ブラッドの手の震えが止まる。
麻酔のことは二人とも口に出さなかった。二人ともこれが儀式だということを知っていた。
「やるよ、スウェル」
ブラッドの低い声。
冷たいナイフがスウェルの口中に差し入れられる。肉に当たる。刃はゆっくりと肉の中に食い込んでいく。
小さな血の粒がスウェルの口の端に浮かび、やがて膨れあがる。少し痺れる感じ……それから猛烈な痛みが襲う。汗が吹き出し、涙があふれた。堪え難かった。痛みは独立して物凄い存在感でスウェルの正気を脅かした。
「痛い、痛い、痛い」
「反対側、いくよ。動くな」
ブラッドは落ち着いていた。そして残酷だった。
肉が切れる。スウェルの肉。スウェル自身の肉。ピンクのつるつるした、濡れたゴムみたいな粘膜に、金属が入り込み、引き裂く。どうしてこの痛みを想像しなかったんだろう?
二度と戻らない細胞どうしの結合。どうかなってしまう。自分が変わってしまう。
やがて、刃が引き抜かれる。ブラッドが消毒液に浸した金属片を傷口にはめ込む。
「痛い、痛い、痛い、痛い」
まともに声が出せない。スウェルの顔は血と汗と涙でぐちゃぐちゃに濡れていた。ブラッドは殺したいくらい平然と、スウェルの顔を拭いた。
「痛い、痛い」
スウェルはブラッドを見上げ、訴える。
不意に、ブラッドに抱き締められた。子供のころ、注射の後、看護婦がしてくれたみたいに。
ブラッドの声が耳元で聞こえる。
「君は抜け出したんだ、スウェル。僕たちはステージに住む。僕たちは成功する。……」
スウェルの頭は麻痺している。何もかもへんな夢みたいだった。
ブラッドの汗じみた髪の匂い、自分の血の匂い。口の中が血の錆臭いまずい味でいっぱいになっている。ブラッドの体温。ああ、ブラッドのやつ勃起してやがる。
翌日からスウェルとブラッドは架空の世界の住人になる。CDとヴィデオと嘘だらけのカヴァーストーリーの向こうの幽霊。
スウェルはブラッドの抱擁と口元の痛みに耐えながら、いつかブラッドに、自分がコンサートの時に落ち込む感覚について話すことがあるのかと思う。
まるでロックスターのようにふるまいながら、ひとごとのように自分を観察していることを。自分がにせものだと、どれほど痛烈に意識しているかを。
……多分、話さないだろう。
copyright: 間瀬純子junko mase
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