短編小説サイト 死んだ恋人を捜して
ソネリルは遠からず砂漠に飲み込まれるだろう。
私は飛行機で四十八時間かけて、ソネリルに来た。もうずいぶん前のことだ。私は日本に帰れなくなった。
物価は安いので、手持ちの金で暮らしていけるが、もう、帰りの飛行機の切符を買えないのだ。日本までの切符は、ソネリルの人々の二十年分の年収に当たる。
日本にいるはずの父親に連絡して、送金してもらおうかと考えたこともある。が、何度、電話しようとしても、実家の電話番号が思い出せない。
私……林カナは日本でオーエルをし、辞めた。日本には、細かい規則がたくさんあって、それを書き出した書類は誰にも見せてもらえなかった。少しでも身動きすると、見えない管制装置のスウィッチが入り、手ひどい電気ショックを受ける。私は満身創痍だった。楽になる手段はあった。洗脳されればいい。歌謡曲がその方法だった。それは店でも仕事場でも流れていた。たくさんの曲があったが、どの曲も同じことを歌っていた。「頑張れば、いいことがある」根拠のない空の約束手形だ。私はそれが思考コントロールであることに気づく程度には鋭敏だった。
私は、日本に充満する思考コントロールと管制装置から逃げた。
そして、ソネリルに来た。ソネリルには何もない。
ソネリルは、粘土づくりの古い都市だ。四千年前には、オアシスを囲む王国があって、周辺との貿易で大いに栄えたらしい。オアシスは干上がった。今では、誰も来ない。
ホテルの隣の部屋のギュンターが、私をドライヴに誘った。
都市の外れまでのドライヴ。ギュンターは教養のある、礼儀正しいドイツ人だった。『先進国』の人間は、ソネリルには私とギュンターだけだったので、よく私と話をしたがった。
「ミズ・ハヤシ、ソネリルの食料事情を知っているかい。
食料は全て、輸入だ。いや、寄贈されている。寄贈しているのはアメリカの薬品会社だ。彼らは食料に、開発中の薬品を混入し、人体実験をしている。今、開発しているのは、新しいタイプの抗鬱剤だ。ご存じの通り、アメリカ人は、ヒステリックなまでに、力強くポジティヴであることを求めるからね。だが、どうやら、実験は失敗しているらしい」
古いBMWが、都市の外れにたどり着いた。
砂漠が広がっていた。オレンジ色の砂が風に飛ばされ、私とギュンターの上に舞った。粘土の家が、砂に半分埋もれていた。
ギュンターは口の中に砂が入るのも無視して、話し続ける。「金星には、動物園の廃墟がある。そこには、ありとあらゆる種類の奇形の動物が集められていた。鱗のない双頭の蛇、溶けかかったアザラシ、多肢症で象皮病のサル、内臓が露出した山羊、脳のない犬、両性具有のマレーバク。
どの生物も、どうして生きていけるのか不思議なほどだ。動物園は、金星の粘土で作られ、建て増しに建て増しを続け、奇怪な建築物になっていた。
動物園は、遠くから見ると豪壮な宮殿のように見えたが、粘土には、空き缶や使用済みコンドームが混じっていた。細かく仕切られた各小屋に、一匹づつ動物が入れられていた。金星開発の撤廃とともに、その動物園も閉鎖された。動物たちはうち捨てられた」
私は、金星にはまだ人類は到達していないはずだと言おうとした。
だが、自信がなくなったので止めた。
翌日、ギュンターは自殺した。
ホテルの私の部屋には、日本に残してきた恋人、和彦の幽霊が出る。
和彦は煙のように部屋の天井付近を浮遊し、安物のコロンの香りを残して消える。
ギュンターの言っていた食品の話はほんとうだろうか。私はいつもそれを思い出しながら、ホテルのレストランで毎日、「チェビビ」と呼ばれる、小麦を練って焼いたパンを食べる。
そして濁ったミルクを飲む。私の血液は汚染されているのだろうか。私が歩くと、脳の運動中枢に異常が起こり、体中が一瞬がっくりと崩れ落ちそうになる。視界が急激にぶれることもある。それらの現象にも慣れた。
ソネリル人たちは、比較的穏やかだ。鋼鉄のような色の肌をした、痩せた長身の種族だ。顕微鏡で見る微生物のように、緩慢に動く。昼間から、粘土細工の街角に溜まり、お喋りするわけでもなく、ただ通行人をぼんやり見ている。ここには何の産業もない。
ギュンターの言葉を信じると、アメリカの製薬会社の植民地のようなものだ。たまに、突っ立っている住民の一人が痙攣を起こして、倒れる。英語もフランス語も全く通じない。ホテルのフロントの、発音不可能な名前の男が、英単語をいくつか知っている。「ハロウ」私と顔を合わせるとそれだけ言う。
私は彼に一万円渡した。それで、ずっと滞在可能らしい。
林カナという名前は、正しいのだろうか。私は「地球の歩き方-ソネリル」に載っていた名前からそれを取った。日本語の本はそれしかなかった。私は日本人なのだろうか。
ソネリルは暑く、私は何も考えられない。金星の動物園というのは、実はソネリルのことではないだろうか。私は、うち捨てられた動物の一つなのではないか。
和彦の亡霊が、ホテルの部屋を浮遊している。記憶が消えていく。和彦の亡霊は、私が日本人であったことの最後の証明だった。和彦の顔はもう忘れた。
copyright: 間瀬純子junko mase
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