短編小説サイト  死んだ恋人を捜して

廃墟のラジオ局


1

 

 粘性の高い黒い液体が、ずっと降り続けている。
 その液体は、大多数の人間にとっては、致命的だったらしい。ほとんどが間もなく死亡した。

 コウジとアルトゥール、それにレンは、アムステルダムの安宿で知り合った。液体が降り始めてからは、国立美術館に避難した。そこは、三人だけの住居共同体になった。
 美術館には、過去の王族たちのインテリアが展示されていた。王族の寝た天蓋付きのベッドで、アルトゥールとレンはいつもくっつきあって眠っていた。
 三人ともまだ若い。コウジは東京、アルトゥールはドイツから来た。レンはロンドンだ。ソフトドラッグ合法、売春合法のアムステルダムで、気ままな休日を過ごそうと考えていた。
 アルトゥールは髪を短く刈り、背の高い、カミソリのような体型をしていた。青い目が鋭い。サッカーの熱狂暴虐ファンだった。アルトゥールは三人の中で、あっという間にボス的存在になった。指令を出すのはいつも彼だ。
 レンは金髪で、頬の上気した、気弱そうな青年だった。いつも語尾をぼかし、まともに発言したことがない。
 コウジは、アルトゥールとレンが『やってる』のではないかと考えている。そんなことは、ただ、コウジにはどうでも良かった。だって、黒い液体が雨の代わりに降っているのに、やつらがゲイなのかどうかなど、誰が気にするだろう?
 黒い液体は、毎日降り続けていた。全ての都市機能がストップした。トラム(路面電車)は止まり、鉄道も飛行機も動かなくなった。テレビも映らない。水道も出ない。
「これはアムスだけの現象なわけねえよ」アルトゥールが断言する。「世界中そうだ。じゃなきゃ、食料たっぷり持って、医者の連隊を引き連れて、救援隊が来るはずだ」
 コウジは疑問を口に出す。「どうして俺たちは生き残ったんだろう?」
「さあね。何か、俺たちには、あの液体に対する抗体みたいなのがあったんだろ」
「他にも生きてるやつはいるのかな」
「ぐじゃぐじゃ言うなよ。俺にわかるか。確かなのは、とにかく、元の世界には絶対に戻らないってこと」アルトゥールは、煙草に火をつける。「面白いじゃんか、面白い。ハハ、ムカつく液体だらけのアムス、からっぽのアムスが俺たちだけのものになった」アルトゥールはもったいをつけた、低い声で命じた。
「楽しめ」

 三人は、真っ黒な街路を、黒い液体に濡れながら、戦利品を漁りに出かける。
 誰もいない商店のレジをこじあけ、百ギルダー札を抜き取り、ビールを頭からかけて液体を洗い落とす。レンが、紙幣をトランプのように広げ、見事に数えて見せた。「僕は、国じゃ銀行員……」三人でバカ笑いする。
 食料を確保したら、次はコーヒーショップを襲撃だ。カウンターの裏の、マリファナとマジックマッシュルームの束を取り出してくる。アルトゥールは高級デパートの、ブランドもの皮コートを自分のものにした。コートはごつく、それを着たアルトゥールは、ナチスの将校みたいに見えた。
 セックスショップで、大股びらきの女の写真集を集める。アルトゥールが言った。「飾り窓の売春婦は生き残ってねえのか?」
 死体しかなかった。娼館の、小部屋の中に入ると、ビキニ姿の、ヒスパニック系の十五、六歳の女の子が倒れていた。アルトゥールが、ごついブーツの先で、女の子のビキニをはがす。「腐ってる」
 アルトゥールが乱暴に乳房を蹴った。溶けかかった乳房にブーツがめり込んだ。「ゲエッ」
 レンが吐いた。コウジは何も感じなかった。
 三人は古巣の国立美術館に帰り、パンとスナック菓子を食べ散らかし、ビールを飲み、ジョイントを作った。アルトゥールが、鉄のベンチを取り上げ、十九世紀の宮廷コスチュームのケースを破る。女役(と、コウジは睨んでいる)のレンに、レースのドレスを着せ、三人でげらげら笑った。
 レンが踊り出した。くるくる回るたびに、レースが夢のように揺れた。アルトゥールが、過去の偉大な王の剣を持ち出し、振り上げた。貴重なフランドル絵画の逸品が切り裂かれた。
 弾みで、刃に触れる。アルトゥールの大きな手の平が切れ、血が大理石の床にぼとぼと垂れた。三人はそれでも笑っていた。

2

 そんな生活にもすぐに飽きる。黒い液体は降り続けている。彼らは、午後になると食料を探しに街に出た。液体は、臭い。ガソリンのような、魚の死体のような臭いが、通りにたちこめている。細長くぎっしり詰まったビルディングに寄りかかり、真っ黒な死体が崩れ落ちている。街を縦横に走る運河は、黒い液体で溢れ、奇妙にゆっくりと渦を巻いていた。
 アムスに観光のはずが、地獄に来ちゃったな。コウジは思う。父ちゃん、母ちゃん、由美ちゃん。東京も地獄ですか? まあ、どこもきっとそうなんだろう。
 コウジは、電気店で、ソニーのラジオを取ってきた。
 アルトゥールが言う。「ラジオなんて無意味だ。放送なんてやってるもんか」笑いながら続ける。「世界は終わりさ」
 そのラジオは透明で、中の機械が透けて見えた。コウジはそれに惹かれた。答える。「きれいだ」
 アルトゥールは皮肉屋だ。「日本人は機械好きだな。自分たちの文明の名残りが欲しいのか」
 コウジは電源を入れた。電池式なのでまだ動く。ラジオはノイズを拾う。がちゃがちゃとチューナーを回した。
 アルトゥールが言う。「おい、ダム通りのコーヒーショップに行こう。あそこは確か、葉っぱを真空パックしてたはずだ。どこのもこの雨でしけっちゃって」
 三人は、液体のことを『雨』と呼ぶようになっていた。だが、もちろんそれは雨ではない。

 国立美術館の、彼らの巣。夜、広い美術館のどこかから、アルトゥールとレンの、『やってる』とおぼしき物音が響いてくる。
 コウジは、ろうそくの明かりの下で、ラジオをいじり続けた。かすかに音楽が聞こえてきた。リズムと、何かの楽器の音。
 聞いたこともない種類の音楽だった。コウジは夢中で耳をラジオに当てる。誰かが、放送をしている!
 電波が弱いんだ、とコウジは呟く。ああ、この放送の主を捜し当てなければ。
「幻聴じゃないのか?」
 翌朝アルトゥールが言った。コウジは再び、ラジオをつけてみせた。歪んだ音楽が聞こえてくる。それはとても美しい。コウジは夢中で喋る。「この放送の主を捜そう」
 アルトゥールは興味なさげだった。
「捜してどうする? リクエストでもするのか? それより、売人の棲みかを捜そうぜ。エクスタシーと覚醒剤が欲しい」

3

 レンが気が狂った。
 ロンドンに帰る、と言い出したのだ。
 アルトゥールが彼のコートを掴み、揺すぶった。
「ロンドンなんか行ったって誰も生きてねえよ」
 レンは薄ら寒く笑った。妙に冷静な言葉を返す。
「僕が生きているということは、僕のパパやママも、この雨に対して平気な遺伝子を持ってるのかも。……君たちも帰れよ。僕は海を越えなくちゃ」
「海、どうやって越えるんだよ」
「ボート。昨日、運河でいいのを見つけた」
 三人は運河に行った。レンの言っているのは手漕ぎボートだった。アルトゥールが早口で指摘する。
「こんなんで海峡が越えられると思ってるのか?」
「帰るんだ」
「俺たちは仲間だろ?」
「君の命令に従うのはうんざりだ。君の乱暴なセックスも。僕らは単に旅先で知り合った、即席の友達だよ。仲間なんかじゃない。僕は僕の、本当の家族や友達のところに帰る」
 コウジとアルトゥールは、レンのボートを港まで運んだ。大きな船が、立ち腐っている。海は半分黒く染まっていた。水平線のほうが、かろうじて青い。黒い液体の瘴気が、海からももうもうと立ち昇っていた。まだらなモノクロの雲が、空低く垂れる。太陽はどこにも見えない。
 レンは、ボートに乗り込んだ。レンが、残された旅人仲間に言った。「良い旅を」
 ボートはぎこちなく、海に乗り出していった。アルトゥールとコウジは、それが水平線に消えるまで見守っていた。
 二人は国立美術館に帰った。
 アルトゥールとコウジはほとんど口を利かなかった。

 二人は数日間、街で食料を調達しては、美術館に帰る、という単調な生活を続けた。
 やがてアルトゥールが言った。
「俺も帰る。シュヴァルツ・ヴァルト(黒い森)の中の、クソ故郷に帰るよ。ああ、あの森はほんとに黒くなっちまただろうな」それから、静かな優しい声で言った。「コウジ、トウキョウは遠いな」

 アルトゥールは、キーの差さったままのBMWを見つけた。食料と水を積み、エンジンをかける。前の持ち主が、つけっぱなしにしていたクラシックが大音量で流れた。アルトゥールは悪態をつき、音楽を叩き切った。
「楽しかったよ。コウジ」
 コウジは、かろうじて知っていたドイツ語の別れの挨拶を口にする。「アウフ・ヴィーダーゼン、アルトゥール」
 二人は握手した。アルトゥールが日本語で言った。
「サヨウナラ」
 アルトゥールがドアを閉め、車を発進させた。
 タイヤは、街路の黒い液体にぬるぬる足を取られる。アルトゥールは強引にスピードを出したようだ。車は遠ざかっていく。
 ローヒン通りの角を曲がるところで、BMWは時速百キロでスリップし、ビルディングにぶつかって、炎上した。

4

 コウジは本当に一人になった。仲間がいた時は、日課のように続けていた食料確保も滞りがちになり、食べない日が増えた。コウジは弱っていった。
 国立美術館の窓に叩きつける、黒い液体を見て、なんでこんなことになったんだろうな、とぼんやり思う。コウジにわかる訳がなかった。
 盗んできた品物が、キャンプの後のように、彼のまわりにちらばっていた。
 ラジオが見えた。
 スウィッチを入れると、まだ音楽は聞こえた。この放送の主を捜さなければ、と不意に思い立つ。
 立ち上がると目眩がした。ゆっくりと、雨の瘴気が、コウジをも蝕んでいるのかもしれない。コウジは覚醒剤を鼻から吸い、レインコートを着、ラジオを持って美術館を出た。
 放送の主を見つけなければ。それだけでコウジは動いていた。ラジオを耳に近づけ、少しでも音が大きくなる方向に進んでいった。
 コウジは次第にアムステルダムの郊外に移動していった。音楽は、電子のリズムに、シンセサイザーか何かで、簡単なコードをつけたものだった。
 時折、音楽は不意にクライマックスに達し、美しい音の塊が、あたりの空間自体をきらきらと染め上げた。
『捜してどうするんだよ。リクエストでもするのか?』アルトゥールの言葉が、蘇る。コウジは、死んだアルトゥールと、想像の中で会話する。「ああ、そうだね。リクエストをするよ。何をリクエストするか考えなくちゃ」
『レンが死んだよ。海峡の真ん中で遭難した』アルトゥールが言った。『だから止めろって言ったのに』
「君とレンは、愛し合ってたの?」
『うーん、どうかね。あいつが俺の好みのタイプだったことは確かだけどな』
「俺はこれからどうしたらいいと思う?」
『リクエストするんだ。好きな曲を』
 コウジは、ぼろぼろ涙をこぼしながら、アムステルダム郊外の街路を歩いていった。

 それには何日も何日もかかった。電波は段々強く、大きくなっていった。コウジは建物の一軒一軒を覗いた。死体ばかり見た。トウキョウは記憶の彼方だった。
 コウジはただ機械のように、電波の主を探し、うろつき回った。

5

 それは、普通の集合住宅のようだった。地下室から、マリファナの煙の、新しい臭いがした。ドレッドヘアの黒人の男が、ジョイントをくわえ、機材に囲まれていた。発電器のぶーんという音が聞こえた。
 男がコウジに気づいた。
「ヘイ、ボーイ」
 三十くらいの、ハンサムな黒人の男が、どろんとした声で言った。
「……あんたが、放送を?」コウジが訊いた。
「君はリスナーか」
「ああ、大ファンだ」
「会えて嬉しいよ。雨が降り出して以来、リスナーに会うのは初めてだ。俺は、DJディンゴって呼ばれてる……呼ばれてた。君の名前は?」
「コウジ」
「やあ、コウジ」
 DJディンゴは、もうろうと立ち上がり、コウジを抱きしめた。DJディンゴの体は暖かかった。
「何かリクエストは? リスナーのために大サーヴィスするよ。好きなミュージシャンは?」
 コウジは何も思いつかなかった。好きなミュージシャンはたくさんいたはずだったが、もう、思い出せなかった。
「DJディンゴ、世界の終わりには、どんな曲がふさわしいと思う?」
「俺は何千、何万という曲を聴いてきた。素晴らしい曲がいっぱいあった。だけど」
 DJディンゴが首を振った。
「俺にもわからないんだよ、コウジ」

 黒い液体は降り続けている。やがて放送も止まるだろう。


copyright: 間瀬純子junko mase

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