短編小説サイト 死んだ恋人を捜して
名犬ハッピーとわんぱくジンタの話
第一九六話 『幽霊の正体をあばけ!』の巻
立ち入り禁止の札のかかった町外れの幽霊屋敷。
町一番のイタズラ小僧のジンタは、もちろん探険に出かけた。お供はゴールデン・レトリヴァー犬のハッピー。ジンタの親友で、ハッピーとわんぱくジンタはいつも一緒だ。
ところが、幽霊屋敷は、実は銀行強盗の隠れ家だった。強盗たちが幽霊のふりをして入ってくる人を脅し、誰も近づけないようにしていたのだ。
ジンタは、強盗たちにつかまってしまった。ハッピーは逃げ出して、それっきりだった。
室内は薄暗く、気味が悪い。天井はクモの巣だらけ、骨董もののドレッサーの鏡は砕け落ちている。ニスの剥げた板張りの床に、ジンタは縛られ、さるぐつわをかまされ、転がっている。
強盗は二人組。二人とも濃いヒゲをぼうぼう生やし、いかにも凶悪そうな面構えだ。中年の親分役のほうは、海賊みたいなアイパッチをしている。
若い子分が、ジンタを顎で指しながら、親分をうかがう。
「このガキ、どうしましょう」
アイパッチの親分が、深く煙草を吸いこむ。子分の声「殺っちまいますか」
親分は煙を吐きながら、ドスのきいた声で答える。
「……顔を見られた。仕方ねえ」
さるぐつわを噛まされたジンタの、バンビみたいにつやつやした黒い目が、恐怖に見開かれる。
「犬が逃げちまったままですが」
「犬に何ができる。殺れ」
子分は無言でうなずき、ジャンパーの内側から黒い塊を取り出す。拳銃のアップとショッキングな効果音。強盗は銃口をジンタのこめかみに押しつけ、ニヤリと笑う。「だから、立ち入り禁止って書いといたただろ」
ジンタは震えながら、目をつぶる。恐ろしい音楽が渦巻く。可哀相なジンタは、絶体絶命だ。額に汗が垂れる。ジンタの心の声が喋る。(いやだ。神様仏様、助けて。助けてくれたら、もう、いい子になります。もう一度ハッピーとママに会わせて)
不安をそそる音楽が、突然、勇ましい『ハッピーのマーチ』に変わった。ドアが破られ、金色の塊が飛び込んでくる。あっけにとられる強盗たち。金色の塊は、大きく跳躍し、子分を床に叩き伏せた。ハッピーだ。ジンタの一番の親友、賢くて勇敢な名犬ハッピーが、ジンタを助けに戻ってきた!
「畜生!」
アイパッチの親分が、拳銃を抜こうとする。ハッピーが素早く向き直り、右手首に牙を立てた。「ギャアアア」
「手を挙げろ。警察だ!」
扉の外では、三人の警官と警察署の署長が、銃を構えて強盗に狙いをつけていた。二人の強盗はすっかり観念したらしく、しょんぼり手を挙げた。
警官がジンタのさるぐつわと縄を解いてくれる。ジンタは跳ね起きて、ハッピーと抱き合った。照明とカメラの魔法が、愛くるしいジンタをさらに光り輝かせる。
「ハッピー、ハッピー! 君は最高だよ……」
ハッピーはおすわりの態勢で、しっぽを振り続けた。ハッピーの大きな優しい顔は、確かに笑っている。ように見える。
人のいい太った警察署長の小林さんが、にこにこしながらジンタに言う。
「ハッピーが署に凄い勢いで走ってきたと思ったら、必死でわしの制服の裾を引っ張るんだ。ピンときて、追いかけてきたんだが……いや、さすが、ハッピーだ!」
ハッピーが一言、ワンと吠える。
「だってハッピーだもん!」
ついさっき殺されかけたジンタは、元気に答える。署長さんは少し渋い顔をした。「お手柄だが、ハッピーがいなかったら危ないとこだったんだぞ。これに懲りたら、もういたずらもたいがいにするんだな、ジンタ」
ジンタはペロリと舌を出す。わんぱくジンタはもちろん懲りるはずなどなく、また来週も何かやらかすだろう。
小屋を飛び出したハッピーとジンタが林を抜け、丘を走っていく。うきうきするような楽しい音楽が流れる。主題歌『いつも仲良し』の旋律をピッコロが奏でる。
丘を駆け降り、ジンタは服のまま池に飛び込む。水しぶきを浴びるジンタの楽しげな表情のアップで画像が止まった。可愛い顔の上に、白い文字でキャストとスタッフのクレジットが流れる。
エンドタイトル。
子供は思う。どうしていつも番組は終わってしまうんだろう。
「バカ!」
母親が怒鳴る。小さな男の子はびくりと震える。
「テレビばっかり見てるから、おまえはそんなにバカなんだよ」
母親がテレビを切る。
子供の前には、茫漠としたブラウン管だけが残る。
でも、ベッドに入って眠るまでの間、子供は続きを空想することができる。そこで子供は、ジンタにもハッピーにもなれる。
女詩人と本屋の店員と店員の召使いの話
1
私は十五年以上、自動車保険会社の経理課で働いている。
だけど家に帰ると、時折、詩を書く。小さな出版社から二冊の詩集を出した。
詩集には私の醜いモノクロ写真が小さく載っている。こんなものは誰も見ない。大学街の夜の書店の、文芸担当の店員以外は。
雨の上がったばかりの十一月の夜。地元の一つ手前の、急行の止まる駅で私鉄を降りた。大きな書店のこぼすあかりが、黒く濡れた路面に反射していた。
私は新刊本の紙の匂いを嗅ぎながら、ビジネス書やコンピュータの解説書の脇を通り抜け、螺旋階段を昇って、二階の、文芸書売り場に向かう。近くに大学があるせいか、妙にマニアックな品揃えだ。哲学書。文芸評論。現代詩のコレクション。仕事帰りにそんなものを見る気にはなれない。
犯罪小説の棚を見上げて、半時間ほど使った。もう名作という評価のものは全部読んでしまっていた。
結局、アメリカ製のサイコキラー小説をレジに差し出す。タイトルは『ブルーマンデーキラー』。舞台はフロリダ。小柄なブロンド女性ばかりを狙った残虐なレイプ殺人が、毎週月曜日に起こる。五人の被害者は、鼻を削がれ、額にゴルフボールくらいの穴を穿たれていた。やがてヒロインの女性警部補にも、殺人鬼の魔の手が……という内容らしい。
暖かいベッドの中で、他人の危険や不幸に耽溺するのが、今の私の最高の楽しみだった。私はうつむいたまま、ペイパーバックのバーコードが読み取られるところを眺めていた。袋に入れた本と釣りとが手渡される。
「富田宏子さんではありませんか」
レジカウンターの向こうから声が降ってきた。
顔を上げると、店員が私を見ていた。私は店員が人間で、若い男であることにすら気づいていなかった。
「あなたの詩集を読みました」
店員は三十少し前くらいの地味なインテリ青年ふうで、中肉中背で卵形の顔の目立たない外見だった。濃い灰色のセーターに店名の入ったエプロン。左の頬に、棒状にひっつれた火傷の痕がある。濃い黒い髪はいくらか伸び過ぎで、顎のヒゲの剃り残しが目立った。陰気で真面目な声で言う。「素晴らしかった」
「……ありがとう。あの、どうして私だと?」
「写真を載せてたでしょう?」
店員が私を見つめる。近眼の人間が無理に目を凝らしたような、強引な見方だった。サメみたいな、『時計仕掛けのオレンジ』の主人公みたいな目。
「次の本は出さないんですか? 『濾過』から、もう二年くらい経っている」
『濾過』は私の二冊目の詩集だ。
「そんなに多作じゃないの。前の本が売れなかったから、出版も難しいし」
「いやな世の中だ」
と、店員は言った。
数日後、以前の出版社を通じて、件の書店から電話がくる。
『先日、お買い上げの際、レジで少し話をさせていただいた店員です。中里といいます』
「ああ、どうも。あの……、なんでしょう」
私は親しくない人間と話すのはあまり得意ではない。もっとも親しい人間はほとんどいないのだが。
『もしよかったら、私どもの書店で、朗読会をやっていただけないでしょうか。富田さんの詩は音楽的といいますか、独特のリズムがあるので、朗読に向いていると思います』
「……朗読会? 詩の朗読? あの、ニューヨークとかでやってるやつですか?」
『ええ。現代詩をポピュラーにする試みとして、春頃から始めました。月に一度くらい、土曜の夜に。情報紙やミニコミに広告を出してます。まだあまり人は集まりませんが……』
店員は『東京に於ける詩の朗読会の意義』を理想主義的に話し始めた。
何て言って断ればいいのだろう? 人前で自作を朗読、なんて考えたこともなかった。私の醜い容姿、信じられないような体重、おどおどした声。私は憂鬱になり、パニックになりかけた。
「私は、あまり、人前に出るのは……」
『お願いします。思いつきで言ってるんじゃありません』
店員の声は、低く、熱意に溢れていた。
『あなたの詩はもっと読まれるべきだと僕は思っています。『濾過』の何本かには、パウル・ツェランに匹敵する壮烈な抒情性が存在しています』
学生の論文のような言葉遣い。
『……確かに少々難解かもしれないけれど、あなたの詩を潜在的に必要としている人間がいるはずです。僕はその人たちに、あなたの詩を知ってもらう仲介がしたい。そういうことができるなら、僕の仕事にも意味があります。
即売会もします。少ないですが謝礼も。お願いします』
結局私はそれをやった。書店の二階に学生や芸術家志望の若者が二十人かそこら集まり、退屈そうに私の朗読を聞いた。活字の連なりを不器用に音声に変えるごとに、私の詩は、いくらかあった魔法の力を失った。初老の店長は途中で出ていってしまった。店員の中里……中里達巳だけが、腕組みしたまま満足げに私を見ていた。詩集が六冊売れた。
「すごく良かった」
中里が私の両手を握り、嬉しそうに振った。本人はにこやかに賞賛の意を表しているつもりらしかったが、きつい目つきがすべてをぶち壊していた。
私の詩集を持った/あるいは持たない客たちは、皆一様に私と中里に無関心な一瞥を寄越し、書店の階段を降りていった。
帰り際、店頭に平積みになったタレントの告白本を指差し、忌ま忌ましげに中里が言った。
「あれは今日百二十出ました」
私は店のシャッターを下ろす中里をぼんやり見ていた。中里の横顔は、日本人にしては彫りが深く、整っている。この本屋以外でこの男を見たことがあると思った。シャッターの先端が地面に衝突し、ひどい音を立てる。
「……あなたを前にもお見かけしたような気がするんですけど」
閉店後、中里と入ったセルフサーヴィスのバーで、私は言った。こう続けるつもりだった。(家が近いのかしら)一般的な会話の無難な導入部になるはずだ。
中里が訊き返した。「テレビはお好きですか」
「え? まあまあ……ですね」
「昔は?」
「昔は……昔は見てました。高校に行っていたころは、結構」
「七十年代の終りごろですね」
「そうね」
当時、二年くらい、毎日テレビを見てドーナツを食べていた。地球の情報をサーチする宇宙人のように。
「『ハッピーとわんぱくジンタ』という番組を覚えていますか」
「ええと、犬と男の子の話ね」
そういえばそんなものもあった。陽気ないたずらっ子のジンタと賢いレトリヴァー犬のハッピーが、毎週、田舎町に騒ぎを起こすという他愛もない子供向け番組だ。
中里が言った。
「僕はジンタの役をやっていました。今でも時々、初対面の人に見覚えがあると言われます」
「子役だったの?」
「そうです」
「あなたがわんぱくジンタの役を? 可哀相に」
「どうして可哀相とおっしゃったんです?」
私にもわからなかった。
「どうしてって……、だってあなたには全然、ふさわしくない役に思えるもの」
私の言葉の何かに中里は感応した。硬い表情のまま、中里の目が輝く。
「ええ、あれは一種の児童虐待でした」
不意に、怒濤のように、中里の物語が始まる。
ああ、また、と私は思う。同僚のS嬢は、昼になるとやって来て、昨日何のテレビを見たとか彼氏が電話をくれないといった、私にはどうでもいいことを一方的に話し続ける。バスの中で、知らない老婦人に戦争中の苦労話を縷縷物語られたりしたこともある。ある種の人にとって、私は多分、格好の聞き役で、カモなのだ。
中里が語る。
「僕の母親は、非常にバカな女で、子供を人気者にしたがっていました。何もわからない僕をむりやり子役のプロダクションに連れていき、テストを受けさせました。僕の一族は子供のころは可愛いんです。成長するとどうでもいいルックスになるんですけどね。
最初は広告モデル、それからいくつかのドラマに出て、『ハッピーとわんぱくジンタ』の主役をもらいました。母親は有頂天で、誰にでも僕のことを自慢していました。将来はハリウッドよ、とか何とかね。
番組は思いがけないくらい好評で、結局六歳から五年間、僕はジンタをやりました」
中里は一気にそれだけ喋った。なんと答えていいかわからなかった。サインをもらうという間抜けな考えが浮かんだ。
「……テレビの撮影って、大変なんでしょうね」
「うまくいく時はうまくいくんですが、ダメな時は泥沼でしたね。何度もNGが出て、スタッフ全員が苛立っていることも結構ありました。殺気立った監督が、ひきつった猫撫で声で僕に命令して……『もっと自然に、子供らしくのびのびやればいいんだよ。男の子なら、ジンタがやるようなことが、楽しくてしようがないだろう?』
だから僕は何度も池に飛び込んだり、木から逆さにぶら下がったり、犬と本気で競争したりしなければならなかった。本当は図書館で本でも探してるほうが好きなのに……まあ、あんまり昔で、よく覚えてはいないんですが」
中里の頬が一瞬、チックのようにひきつった。
「もう一杯飲みませんか」
「え、ええ」
「ラガービールでいいですか?」
中里はカウンターでラガーを二杯買い、一杯くれる。スツールに腰掛け、ビールをすすると、私が礼を言う間もなく、話を続ける。
「成長するにつれて、どんどんジンタが嫌いになっていきました。安易でご都合主義で、安っぽいヒューマニズムに満ち満ちたストーリーもいやでしようがなかった。
子供だったから、うまく説明することはできなかったけれど、どうしてこんなに平気で嘘がつけるんだろうって、いつも思ってました。
僕の言いたいことはおわかりになりますよね」
「……ええ」
私は中里の饒舌に、ただ怯えていた。
「僕は、こんなことはもうやめたいと何度も母親に言いました。だけど、彼女はとんでもなく愚劣な女で、せっかくスターになれたのよ、と繰り返すだけで、僕の言葉をまともに受け取ろうとはしませんでした。
十一歳になった時、僕は熱したハンダゴテを自分の頬に押し当てました」
中里は左頬の火傷の痕を指差した。
「それでようやくジンタから逃げられたんです」
家に帰っても落ち着かなかった。耳の奥に、中里の早口で囁くように喋る低い声が、残っていた。
中里はしきりに私から『詩の創作の秘密』を訊き出そうとした。
中里も何か書いているのだろう。多分。
シャワーを浴び、ホットチョコレートを飲んだ。そうして中里達巳の存在感を頭から締め出すように努力した。
中里の大きな目が、まだ私に向けられているような気がする。中里は話している間、目を決して逸らさなかった。彼の鋭い目は、彼のエネルギーを外界に放射する噴出孔のようだった。
他人は疲れる。
2
小さなテレビっ子のスズキ・コーエンは、大きくなって万引き常習犯で自動車泥棒の元自動車整備工になった。シアトルかどこかの『グランジ・バンド』みたいに髪を伸ばし、無精ヒゲをはやし、失業保険で買ったよれよれのネルシャツを着て、中里の部屋の隅に幽霊みたいに住みついている。
去年、ゴシップ週刊誌の『落ちぶれた有名人』特集で、わんぱくジンタの居場所を知り、訪ねてきて召使いにしてもらったのだ。本当は飼い犬に、ハッピーになりたかったのだけれど、どうやらコーエンは犬ではなく人間らしかったので、召使いで我慢している。
中里はおまえは何の役にも立たないと言うけれど、コーヒーをいれるくらいのことはできる。
中里はいつものようにワードプロセッサーに向かっていた。コーエンは中里の古い木の机にカップを置く。砂糖なし。ミルクもなし。
ワープロからはみ出した紙には、コーエンにはわからない難しい言葉がぎっしり詰まっている。
「これは、お話かい?」
「違う。論文だ。第二次世界大戦以降の現代社会の文化状況についての論文」
中里が言うことの半分もコーエンにはわからない。だから、コーエンは中里達巳を尊敬している。
タツミはすごく頭がいいんだ。高校の先生たちより頭がいい。大学の先生より……。タツミは、『阿呆のインチキ野郎』って先生を怒鳴りつけて、大学をやめたんだから。
……資本主義社会は、精神の領域にまで、金になるかならないかという判断を持ち込んだ。
様々な巨大メディア……テレビ番組、映画、ロック音楽、コミック等に於いては、クオリティよりもとにかく売れることが第一義となった。作品は、誰にでもわかるものであることが要請された。
大衆向きとされるあらゆるメディアは耳あたりのいい砂糖漬けの嘘で溢れた。『自由』『正義』『愛』といった便利な言葉はあまりにも頻繁に使われたために、もともと持っていた崇高な意味がすっかり擦り切れてしまった。……
こんな原稿には何の意味も革新性もないのかもしれない。
七、八年前、ヴァージニア・ウルフか誰かについてのレポートを書いた時、T教授の言ったこと。
「中里君、よく調べているが、君の読みは強引で、客観性に欠けるきらいがある。テキストから離れて、君の精神的な問題にすりかわっている。……敢えて言わせてもらえば、ウルフをダシに、君の愚痴を聞かされているみたいだよ」
テレビ、雑誌、インターネット。有線の商業ポップ。恋愛ドラマとディズニーランドとお笑い番組。最新ファッションにポルノグラフィー。俺はこういったものが嫌いだ。
下劣な社会の下劣な文化は俺を容れない。俺の母親のバカ女。『ハッピー』のクソスタッフ、ジンタを撫で回した小児性愛者のスポンサー。逃げ出したガールフレンドたち、俺をクビにした雇い主たち、T教授。何もかも地獄に墜ちればいい。
畜生。俺はそんなことを書こうとしているわけじゃない。俺の課題は高度資本主義社会に於ける文化の堕落の仕組みを解明することだ。
だけど、原稿はすぐに行き詰まる。絶対に完成しないのではないかと時々思う。
三十も近くなると、そろそろ気づかざるを得ない……俺はニーチェには絶対になれない。
でも俺は、だからといって『わんぱくジンタ』ではない。コーエンの飼い主でも、単なる本屋の店員でもない。
俺に間違った役をやらせるな。
3
たくさん中里の夢を見た。
溶けかかったハッピーを連れた中里がハンダゴテで私を襲おうとしたり、まったく無意味な記号で一杯の原稿を自分の詩だと言って感想を強要したり、天井に張りついて私を罵ったり、そんな夢ばかりだった。
中里が怖かったので、夜、あの書店に行くのは避けていた。
だけど、二、三週間して、また中里から電話がかかってきた。
週末に夕食を一緒にどうか、とかいうものだった。私がへどもどしているうちに中里は会う時間と場所を指定して、楽しみにしていますと言って切った。
週末。インド料理レストランで、中里はずっとある作家への批判を弁じ続けていた。私は中里の小難しい話を聞くのが苦痛だった。時折、あのサメみたいな鋭い目に親しげな色を浮かべ、私の意見を尋ねるのにも参った。中里を失望させるのが恐ろしかったので、もっともらしい見解をその場ででっちあげなければならなかった。
ブタのように食べると思われそうで、ナンを半分近く残した。どちらにせよ、私の胃は縮こまっていた。
食事をして、何杯か酒を飲むと、中里は私をマンションまで送ってくれた。おやすみを言おうとすると、中里が私のポチャポチャした不器用な手を取った。
中里は身をかがめ、私の手の甲にそっと唇をつけた。まるで、騎士を演じるヴァレンチノのように優雅に。一瞬、ものすごくハンサムに見えた。彼は昔、演劇の訓練を受けていたのだ。
唇は冷たかった。
「僕はあなたを尊敬している」
私をにらみつけながら、中里は言った。
「あなたの詩を読むと、この世にまだマシなものが残っていたと思える」
私には気のきいた返事などできない。
中里は私の右手を自分の頬に押し当てた。左頬の火傷痕、彼の意思の力の聖痕に。
次に気づくと、私は中里の腕の中で、口の中に、海の生き物のような中里の舌が入り込んでいた。食べたばかりのカレーのスパイスの味。何年ぶりかに嗅ぐ男の匂い。
中里は眉間に皺を寄せ、苦しそうに目を閉じていた。かすかに粘るようにけばだったコーデュロイの古いコートの袖が私の首にまわされる。チクチクするセーターの下の中里の胸の、堅さと平らさに愕然とする。中里が囁く。「……あなたの部屋に行きたい」
高校生の男の子が二人、ワイルドぶった口調で話しながら、通り過ぎていく。
「超濃い」
「うわー……、吐きそう」
私は中里を突き飛ばした。
「わた……私は触られるのは嫌い」
中里はうろたえていた。意外に感じているようにも見えた。
「すいません……すいませんでした。富田さん」
中里は怒り出しはしなかった。うわずった生真面目な声で詫びの言葉を繰り返す。丁寧に頭を下げ、後ろを向いて足早に歩き去った。
私は中里の申し出を喜んで受けるべきだったのかもしれない。中里は私より八つも若い。十五キロも軽く、がっしりして無駄のない体をしている。自分では平凡なルックスだというけれど、きれいな子役スターだった時の面影が、残っていなくもない。要するに、中里は肉体的には、本来なら私には望むべくもない男だった。
でも中里が私に何を求めているのか、それがわからないのが怖い。私の体が中里に魅力的に映ったとは思えない。
私には中里にあげられるものなど何もない。中里に深入りして、それがバレた時の中里の反応が怖い。失望、怒り、憎悪、軽蔑。
私の詩。
だけど私の詩は、私が書いているのではない。外界が私の無意識を透過して、歪んだ姿で紙の上に再現されているだけ。
私は単なる濾過装置に過ぎない。ひずんだフィルター。
私は濾過装置で、自動車保険の経理計算機。
自分自身などというものはほとんどない。うすっぺらい意識のノイズだけ。そんなものに何の意味があるの?
私を放っておいて。
安全な自分の部屋に逃げ込み、鍵をあるだけ掛けた。
そして二度と中里が電話をかけてこないことを願った。いっそ、電話番号を変えてしまおうか?
4
本に埋もれた中里達巳の部屋。夜間勤務の中里は昼間眠るので、窓はすべて、ぶあつい遮光性のカーテンで覆われている。
召使いのスズキ・コーエンがコーヒーを給仕する。コーエンが言った。
「……あんたこの前、へんな女と『バニーズ』で飲んでただろ」
中里はコーエンをにらむ。セーターの肩にかけられたコーエンの手を、乱暴に払う。
コーエンの胸に悲しさがこみあげてくる。コーエンが短い人生の大部分で感じ続けてきた感情。
「あの女とやったのか」
「やってない。畜生、誰もがおまえみたいにいつもセックスのことを考えてると思ったら、大間違いだぞ」
中里は思う。あれは情欲なんかじゃない。
俺はただ、彼女に慰めて欲しかった。詩を捧げて欲しかった。俺は特別な人間だと特別な女に言われたかった。
……そのためにセックスを利用しようとした。
「彼女は詩人なんだ」
「しじん? でもブスだ。あんたには似合わないよ。ジンタ」
中里はまずいコーヒーをすすり、冷たく言う。
「もう一度ジンタって呼んだら、殺すぞ」
copyright: 間瀬純子junko mase
短編小説目次