短編小説サイト 死んだ恋人を捜して
1
新宿始発の私鉄の郊外、神奈川県に入っている。駅前の商店はどことなくうらさびれている。華やかなのはパチンコ屋とカラオケ店くらいだ。少し離れたところに大型チェーンのスーパーの看板が見える。買い物客は皆、そちらに流れてしまったようだ。
塚原章史は仕事道具の詰まった、黒い大きなナイロンバッグを持ち、顧客候補が自分を見つけてくれるのを待った。塚原は緊張していた。スーツを着てくるべきなんだろうか? どのみち金髪でパンクなので、スーツを着てもむなしい。塚原は『普通の』社会的礼儀を知らない。知っているのはSF映画と小説と多少の造型技術だけだ。美術専門学校時代から、模型会社でずっとバイトとしてミニチュアを作って過ごしてきた。
この前、模型雑誌に、仕事とは別に趣味で作った、模型の写真が載った。
模型雑誌の編集部経由でその顧客から塚原のアパートに電話がかかってきたのは、数週間前だった。男の声が「イヌイ」と名乗った。非常に丁重に、自宅の改装をしたいのだが、あなたにお願いできないだろうか、と言った。
「は? ええと、僕はミニチュア屋で……ええと。それは、あの、インテリアデザイナーとかの仕事じゃ……」
「無理だとおっしゃる前に、とにかく私の自宅を見ていただけないでしょうか」
「ええと、今、バイト先の仕事が忙しくて……」
「今、とりかかっていることが終わってからで結構です。材料費とあなたの人件費をお出しいたします」
『イヌイ』の提示した金額は、時給千円で働いている塚原には気の遠くなるような額だった。律義で小心な塚原は、バイト先の仕事が一段落するのを待ち、休みをとった。そうしてこの郊外の駅前で『イヌイ』を待っている。
「塚原さんですか?」
声をかけてきたのは、塚原よりいくらか年上の、二十代後半か三十くらいの男だった。別にスーツを着てくる必要はなかったようだ。顧客候補は黒いスウェットにジーンズのラフな格好で、もう秋だというのにサングラスをかけていた。だらしなく顎まで伸びた髪。赤血球が死滅してしまったような、青白い肌。不健康そうな、痩せた青年だ。
「あ、そうです。イヌイさんですか」
男は社交的な微笑を浮かべ、頭を下げた。サングラスはかけたままだ。
「新宿から遠かったでしょう」
「え、ええまあ」
「僕のうちまで、また少しありましてね。あのスーパーの駐車場に車をおいてあります」
車は古いシヴィックだった。「かなり前に中古で買ったんですよ。そろそろ廃車ですね」
車は駅前を離れ、どんどん郊外に向かう。雑木林が増え、小さな牧場まである。塚原は何を喋っていいのかわからず、外の景色を眺めたり、運転するイヌイの横顔を見たりした。そのうち、イヌイがサングラスをかけている理由がわかった。左目が半分潰れているのだ。
やがて、数軒かたまった、こじんまりとした家の群れが見えてきた。二十年くらい前に、共同で建てられ、売り出されたものだろう。『コ』の字型に、小さな家が並んでいる。汚れた白い壁、青い陶器の瓦屋根、玄関の横には、ガラスレンガ。一軒一軒にガレージと狭い庭とベランダが付き、可愛らしい赤い洋風のポストが立っている。できた当時は、壁はアイスクリームのように白く、アメリカの郊外のようにしゃれて見えたのだろう。今でも、きれいに塗り直し、花を植え、外観を整えている家もあるが、イヌイが車を入れたのは、もっとも汚い、奥の家のガレージだった。
曇った空の下のその家は、犯罪実録本の口絵に載っている、アメリカの大量殺人鬼の生家のように見えた。
「イヌイさんの実家なんですか?」
「実家ですよ」
「じゃあ、家族の人がいるんですか」
「両親はマレーシアに」
カーテンは全部閉まっていた。表札はローマ字で『INUI』とあった。イヌイは鍵を出し、木の扉を開けた。
玄関を入ると、がらんとしていた。引っ越していったあとのように何もない。目の前に階段と、曇りガラスの嵌まったドアがあった。
塚原の群馬の実家の、長い年月の生活で、ごちゃごちゃになった室内とは、まったく違う。イヌイは靴をはいたまま、廊下にあがった。「下に和室が一つとリヴィング・ダイニング、キッチンと水回り。二階に二部屋。まあどうぞ。靴ははいたままでいいですよ」
塚原はそのリヴィング・ダイニングに通された。玄関以上に何もなかった。家具も調理器具もなかった。樹脂のカップと皿が数セット。和室の隅に質素な折り畳みマットレスとフリースの毛布が見えた。ダンボールが一箱置いてあって、衣類がはみ出していた。書類と辞書と本が数冊。イヌイは実家で、キャンプのように暮らしているらしかった。
塚原は缶コーヒーを渡された。イヌイは床に直接座り、煙草をくわえ、頭を軽くさげた。「イヌイジュンです」
「あ、ああ、塚原章史です」
「塚原さんの作品は『モダン・モデル』で見せていただきました」どこか別の惑星の宇宙空港のジオラマだった。読み浸ったSF作品から空想した、架空の星だ。塚原はそこをガディシュ第三衛星と名付けていた。
「都合で、この家は僕の好きにしていいことになりました」
イヌイは言った。「僕は相模原の二十五年前の建て売り住宅ではなく、ガディシュ第三衛星に住みたいんです」
「……はあ」
雑誌の写真だけで、こんなに簡単に家中の改装を決めるものだろうか。ジオラマ作品を買いたいというならわかるが、ガディシュ第三衛星は住むところではない。そこに住んでいるのは、ガディシュ第三衛星人だけなのだ。
塚原はなんだか怖くなった。イヌイはあいかわらず、サングラスを取らない。戸惑っている塚原に、イヌイが言った。「二階も御覧になりますか」
二階には二つの部屋があった。四畳半の洋室は、カーテン以外何もなかった。 もう一つの部屋を開ける時、イヌイはノックをした。カーテンを締め切った薄暗い部屋の中で、髪の長い女が毛布にくるまって眠っていた。(もう午後の四時だ)
ここだけは、ものが溢れていた。洋服、CD、ペイパーバック、ゲーム、サテンとレースの下着、ミネラルウォーターのペットボトル、チョコレートの空き箱、化粧品。雑誌から切り抜いたたくさんの写真と絵が壁に貼ってあった。一番大きなのは、ポール・デルヴォーが、時間のない世界を描いたポスターだった。
女は、というより少女だろうか、年齢の見当がつかない。ウェイヴした量の多い髪が煙のように、白い顔にかかっていた。少女が目を開けた。大きな目で、塚原を不思議そうに見た。イヌイが少女に言った。「塚原アキフミさん。家を改装してくれる……多分」
「妹ですよ。ノエといいます」イヌイは塚原に下に戻ろうという仕草をし、ドアを閉めた。
2
結局、塚原はバイト先の模型会社を休み、イヌイの仕事を受けた。報酬が魅力的なのが友達連中に話す一番大きな理由だったが、それより家一軒分の『実物大ジオラマ』を作れる機会を逃す気はなかった。
ガディシュ第三衛星は塚原のここ十年ほどの逃避地帯だった。そこには高度な文明が発達しており、住人たちは生きている必要すらなかった。彼らのほとんどは眠っていた。数年(ガディシュ母星標準時)に一度、交替で、どうしても必要なシステムメンテナンスのために起き上がり、わずかな仕事をし、それから信じられないような数々の享楽の限りをつくし、また眠りについた。
塚原がこの、自宅のテーマパーク化リフォームをはじめ、二週間ほど経った。 イヌイ家の風変わりな兄妹ジュンとノエについては、塚原はまだほとんど知らなかった。彼らの名前の漢字表記すら知らない。
兄のほうは技術書の翻訳をしている、という話だった。作業中の部屋を避け、書類を持ち込み、ノートパソコンに何か打ちこんでいた。
ノエは長身で痩せぎすで、四時過ぎなければ起きてこなかった。いつも、ぞろっとした少女趣味とゴシック趣味の入り交じった、非活動的な格好をしていた。きれいといえば、きれいかもしれない。塚原を見つけると、アンコール時の役者のように黙って頭を下げた。一言も喋らなかった。
時々、イヌイが塚原とノエに声をかけ、缶コーヒーやコーラをふるまった。三人は藤色と銀色に塗りこめられた、元リヴィング・ダイニングで陰気なピクニックをした。イヌイはヘヴィ・スモーカーで、絶えずタバコを手に取っていた。初めのころ、塚原はノエに話しかけようとしたが、彼女はにこにこしているだけで、けっして返事をしなかった。もしかしたら、喋れないのかもしれない。
一度イヌイに尋ねたことがある。
「妹は喋れないのではなくて、喋らないんですよ。メンタルな原因らしい。人見知りが酷いんですが、塚原さんはわりと平気みたいですね。気に食わない相手だと、部屋から出ませんよ」
「いつから?」
イヌイは意外そうな顔をした。「昔からです」
「子供のころからなんですか」
「いや、子供のころの妹はよく喋った。いつからだろう……僕もよく覚えていないんですよ」
塚原はノエをきれいだと思ったので、一時間半かけて蒲田のアパートに帰ると、ノエのことを考えた。どこかおかしい、可愛い女の子。彼女となら、何も話さなくていい。彼女と一日布団でごろごろするのはきっと素敵だろう。もし自分がノエと付き合うとしたら、あの兄はどう出るか考えた。
ノエの部屋を改装する前に、掃除をしなければならなかった。イヌイはノエの手を引き、立ち上がらせた。ノエはしばらく不器用に、下着や生理用品や化粧品などをかきあつめようとしていた。イヌイが子供に言うように、となりの部屋にいるように命じた。イヌイと塚原は、ノエの荷物を黙々とダンボールに詰めた。「……そういえば、ノエさんの意見をまだ聞いてません。彼女の部屋なのに」
「もう聞きました。最初の計画通りで」
塚原は、ノエが兄となら、何か喋る以外の方法で交流しているのかもしれないと思った。字を書くとか絵を描くとか、それとも写真を指差すとか。
ノエの部屋はガディシュの『女王の間』をイメージして作られた。女王の居城は、塚原の頭の中では娼館と一緒だった。アクリルの宝石が壁中を飾り、ポリエステル樹脂の楕円のベッドに金色と紫のクッションを載せた。床は、波打つように歪んでいた。
新しいベッドに寝そべったノエは、本物のガディシュの女王/娼婦のように見えた。
すべての部屋の窓はとうに塞がれ、時間はよくわからなくなっていた。
塚原はイヌイ家に泊まり込む日が増え、やがてほとんど住んでいるも同然の状態になった。塚原は友人知人に連絡しなかった。彼らの間では、塚原は失踪したと冗談のネタになっていた。
時折、イヌイのシヴィックに乗せてもらい、材料を買いにいったり、ついでに食料や日用品の買い出しにつきあったりした。イヌイはかなりの額の金を持ってでかけ、何もかもまとめ買いしようとしていた。できる限り、外に出たくないらしかった。
塚原はまだ改装途中の、二階の四畳半に寝泊まりしていた。ずっと昔、ここにイヌイ家の人々(両親と兄と妹)が、普通に暮らしていたころ、ジュン少年の部屋だったそうだ。今のイヌイジュンは階下の元和室、現ガディシュ第三衛星宇宙港待合室にいる。
昼だか夜だか既にわからないが、塚原はクロッキー帳を片手にノエの部屋を訪ねた。イヌイ抜きで、ノエと会ってみたかった。文字や絵でなら、彼女と話すことができるかもしれない。女王の居城では、機械のリズムが流れていた。この家にあるCDはみんなヴォーカルなしのテクノだった。天井からぶらさがった、塚原の苦心の作……ガディシュ星系の軌道図を模した稼働式ライト……が複雑な光線を描く。
ステレオの電光表示が三時過ぎを示していた。多分午前だろう。
ノエは、紫と金色のベッドから生えた植物型の、怠惰な美しい生物のように見えた。長い手が、塚原を差し招いた。
塚原はおずおずとクロッキー帳を見せた。
「ノエさん、字書ける……?」
ノエはクスクス笑った。塚原はノエのベッドの脇にしゃがみ込み、ペンとクロッキー帳を渡した。「なんか話、しようよ」
塚原は話すのが得意とはいえない。が、ノエ相手なら意外に簡単に言葉が出てくることに気づいた。
こちらが口で喋り、向うが字を書くのでは気兼ねするかもしれない。塚原はクロッキー帳を広げ、大きな字で書いた。(この部屋は気に入った?)
「……喋れるわ」
か細い声で、ノエが言った。
「え……」
「喋るのはすごく久し振り。自分の声を聞くのって変」
「じゃあなんで」
「ジュンの前では喋れない。ジュンは難しい。ジュンとの会話はみんなテストみたいだった。わたしが答えを失敗すると、失望される」
「ジュンってイヌイさん? ノエさんの兄ちゃんなのに?」
「怖いの」
家族によって事情は違うのだろう。塚原もそれくらいのことはわからないでもなかったが、それにしても妙な兄妹だと思う。ノエは外で一人で生きていけるようには見えない。怖くても兄と離れられないのか。
「……殴ったりするの?」
「まさか」
ノエは木綿糸の太い束のような髪を、尖った爪でいじった。「塚原さんは怖くない」
「うん。ああ。俺は怖くないよ。……」
「ガディシュ第三衛星って、みんな塚原さんが考えたの?」
塚原はうなずいた。小学生の時、SFアニメばかり見て、中学に入るとSF小説(塚原の好みはニューウェイヴやサイバーパンクでなく、異星の壮大な年代記だった)に読み浸り、いつも別の星にいることを空想していた。その星に名前をつけ、社会機構や生活や色々なもののデザインを考えた。塚原はエル・ガディシュ第三衛星の様々な人物になった。ガディシュ母星から大規模なケイ素呼吸生物の侵略群が来た時は、救国の英雄になり、女王の愛を受けた。政治家になり、画期的な政策を立てた。『我々の文明はこれほどまでに発展した。もう生きている必要などあるかね?』
「わたしも住人なの?」
「女王様。ここは女王様の部屋をイメージしてるんだ」
「女王様は何をするの」
何をするのか考えたことがなかった。女王様はいつも豪華な寝台で、塚原を待っていた。「……いるだけでいいんだ」
何度も繰り返した空想が、実物大ジオラマ、生きたフィギアつきで目の前に出現していた。塚原はノエの手を取ってみた。冷たい。ノエは拒否しない。これは本物かもしれない。本物のガディシュの女王娼婦なのかも。
塚原はベッドのノエの横に膝をついた。覆いかぶさり、キスする。ノエがしがみついてきた。「いいの?」ノエは返事をせず、塚原に抱きついたまま、泣きだした。すすり泣きが号泣に変わる。
塚原は困惑しながら、ノエの背を撫でる。ブラジャーの止め金が、手にひっかかった。
ノエが言った。「……ジュンと寝たい」
塚原は黙々と最後の部屋の作業をし続けた。二階の四畳半。ここは、死んだように眠り続ける、ガディシュの住人の睡眠槽保存庫になる予定だった。壁は既にブルーと黒に塗ってあった。透明ポリエステル樹脂で睡眠槽のキャノピーを作っていると、イヌイが呼んだ。
「塚原くん、休憩しませんか」
イヌイは、内装が出来上がるにつれ、生き生きとしてくるようだった。サングラスはかけたままだ。もう一月あまり同じ家にいるが、外したところをみたことがない。二人は階下に行った。
「メシは?」
「食べました」塚原はノエの件でイヌイに文句をつけたかったが、何をどう言えばいいのかわからなかった。
「イヌイさん、彼女とかいないんですか」
「いませんよ」
イヌイはタバコに火をつけ、塚原にも一本渡した。イヌイは宇宙空港のロビーを見渡した。
「自宅をこんなふうに改装しようなんて男に、彼女も何もないでしょう」
ロビーのスツールに腰掛けたイヌイは、見事にセットに嵌まっていた。本当にガディシュ第三衛星の住人、技術者か何かに見えた。
塚原はとんでもなく間違ったことをした気がした。塚原の長年の空想は、イヌイ家の兄と妹に完全に奪われてしまった。二人ともこの星の住人になってしまった。
技術者はガディシュ第三衛星全体の睡眠システムのメンテナンス作業を終えると、女王娼婦のところに行くだろう。そして、彼女を貪るだけ貪って、また何十年も死体同然に眠る。「塚原くん」
塚原はぼんやりしていた。イヌイは『怖い』ヤツなのか? ノエはマジで兄貴と寝たいのか?
「ちょっと疲れてるみたいですね」いつもの静かな声。
「……やりだすと止まらなくなるんですよ。俺にとっては夢みたいな仕事で。ガディシュを実際に作るなんて」
なのに、どうしてここの持ち主が俺じゃないんだ?
「少し、休んだらどうです? 二、三日。僕のほうは構わない」
「ああ、……そうします」
3
塚原は久々にイヌイ家を出た。外に出ると夕刻だった。寒い。駅前ではクリスマスのディスプレイが商店を飾っていた。作業を始めたのは、十月になるかならないかだったのだが。
電車に乗ると、パニックに襲われそうになった。大勢の他人と鉄の車両に詰め込まれ、じっとしてただ運ばれるままになっているのが酷く辛い。塚原はスニーカーでドアを軽く蹴りながら、新宿まで耐えた。JRに乗り換える。
地球の日本の東京の蒲田のアパートの階段を登る。
長い旅から帰ってきたようだった。六畳と三畳の台所に、ユニットバスのついた狭い部屋。捨て損ねた生ゴミが腐っているようだ。制作中のジオラマは、イヌイ家の内装をした後だと、いかにも貧弱に見えた。
留守番電話のランプが点滅していた。それほど電話が掛かってくるほうではないのに、メッセージが十二件も入っていたので驚く。飲みに行こうという友達の誘い。合同展覧会をなんとか画廊でやるから来いという別の友人。さっさと本を返せという図書館員の声。バイト先の社長から、いつ仕事に戻れるか知らせろ。群馬の実家の母親から三回メッセージ、電話しなさい。
イヌイ家でけっして聞かなかった類の音楽、明るいパンクを流すと、やかましいとしか感じられなかった。以前好きだったテレビのヴァラエティ番組は、永遠にバカ騒ぎを義務づけられた地獄のように見えた。
塚原はテレビを消し、安いパイプベッドに横たわる。部屋はあまりに日常的で、凡庸で、イヌイ家に慣れた目には、かえって非現実的だった。
この部屋で暮らしていた時の、眠る前の習慣を思い出し、頭の中でガディシュ第三衛星に行こうとした。そこには既にイヌイ家のジュンとノエがいて、二人の存在の気配が衛星全体を汚していた。
サングラスをかけたイヌイが、ものやわらかに『塚原くん、××××ですね』と言った。何を言っているのかわからないが、イヌイは喋り続けた。邪魔臭かった。塚原はここしばらく、イヌイの声しか聞いていなかったのだ。
眠くなって寝た。
4
まだ塗装の匂いが立ち込めている。ガディシュ第三衛星がひとまず完成した。三人は階下から衛星を見ていった。藤色と銀色が溶け合った宇宙港待合室。機能性を無視した椅子が並び、電光板が読めない文字で、次の宇宙船の発着時刻を告げている。
迷路のように設置された、工場の自動機械のあいまに、作業する巨大昆虫が並んでいた。
階段を昇ろうとした時、ドアベルが鳴った。イヌイが不愉快そうに、衛星と地球を隔てるドアを開けにいった。
「何なのこれ!?」女のカン高い声が聞こえた。上品なウールのコートに身を包んだ、二十代後半くらいの女だった。ショートカットにあっさりした化粧をしている。
女は呆然と室内を見渡し、イヌイを見、それから二人の異様な格好の男女……長い金髪をヘアバンドで上げ、塗料にまみれたMA−1とツナギを着た軟弱そうな青年と、伸び放題の髪の、少女趣味で異様な、汚れたドレスの少女……に目をやった。
「こんにちは」
女は固い表情で塚原とノエに挨拶した。塚原も頭を下げる。それから、女はイヌイのパーカーの肩を掴み、非難するように声を荒げた。「お兄ちゃん、何なの、この部屋」
「ノエ」
イヌイが闖入者をそう呼んだ。塚原に言う。「妹だ」
「え……じゃあノエさんは?」塚原の知っているノエは震えていた。
「その子は俺の、」イヌイが言った。「……何だろうね」
「彼女?」本物の妹のノエは、懸命に状況を理解しようとしているらしかった。「その人もノエっていうの?」
「ああ」イヌイはいい加減にうなずいた。多分本名は違うのだろう。
イヌイは冷淡に訊いた。「で、何しに来たの?」
「お兄ちゃん、何度電話しても出なかったじゃない」
本物の妹は、家の中をのぞき込んだ。「何でこんなことをしてるの? 窓が全然ないじゃない」悲しげだった。「会社も辞めちゃって……家、こんなお化け屋敷みたいにして」
「ノエには別に住む家があるだろう。誰かの世話を焼きたいなら旦那がいるだろ? 子供でも作れば?」
「一体どうしてこんなことしてるの? こんなところに住んでたらおかしくなっちゃうよ……」
塚原は見兼ねて、偽の妹のノエの手を引き、二階に行こうとした。偽の妹は動こうとせず、ただボロボロ泣いていた。部屋はもう、宇宙空港には見えなかった。ただのセット、実物大ジオラマだった。
イヌイは妹を説得して追い返そうとしていた。「仕事も前の会社から外注でもらってる。ちゃんとメシも食ってる。ノエが心配してくれるのはわかったから。俺のことはもう放っておいてくれ」
「外には出てるの?」
「買い出しにね」
「……こんなところに閉じこもってたら、お兄ちゃん、ダメになっちゃうよ。すごい圧迫感。まるで自分を生き埋めにしてるみたいじゃない」
イヌイは苛立たしげに、放っておいてくれ、と繰り返した。偽の妹が塚原の手を振り払って、玄関に走っていった。「ノエさん」塚原が馬鹿みたいに突っ立て見守る中、ノエは本物の妹を突き飛ばした。
本物のノエは玄関アプローチのタイルに倒れた。偽のノエは泣きながら、本物をにらんでいる。イヌイが慌ててしゃがみこみ、本物の妹の手を取り、起こした。「大丈夫?」
「あ、うん。お兄ちゃん、まだ優しいじゃん……」
イヌイはさっと妹の手を放した。冷酷に言う。
「こんなのはただの習慣だってことがどうしてわからないんだ? 優しくて親切なフリが習慣になってただけだって」
イヌイノエの真剣な兄思いの表情が、一瞬消えた。まったく台本にないセリフを、相手方に言われた女優のようだった。
「優しくて親切なフリって……」
イヌイは一歩下がり、ドアを閉める。素早く鍵を掛けた。それから、泣きじゃくる偽のノエの頭を撫でた。
少しの間、ドアノブが回され、本物の妹の呼ぶ声が聞こえた。
5
塚原は片付けを終えた。レンタルの軽トラックに、大量の廃棄物や材料や道具を積みこんだ。
イヌイは既に塚原の口座に金を振り込んでくれていた。室内はすべて写真に収めていたが、ろくに見直さないことはわかっていた。ガディシュ第三衛星は、もう塚原の中から出ていってしまった。
イヌイジュンと『ノエ』が戸口で見送ってくれた。『ノエ』は偽ものの兄にしなだれかかっていた。塚原に、たまたま立ち寄った友好的な異星人に対するように、手を振った。
彼ら二人のいる場所まで、何万光年もの空間が横たわっていた。同時にそこでは、何もかもが滑稽な作りものだった。急に塚原は怖いほどの寂しさを感じた。塚原は慌てて言った。
「あの、イヌイさん、どこか壊れたりしたら、電話してください。いつでもメンテナンスに来ますから」
イヌイは笑ってうなずいたが、多分電話はこないだろう。塚原は軽トラックに乗り込んだ。エンジンをかける。空がきれいだった。
イヌイと妹が扉を閉めた。
copyright: 間瀬純子junko mase
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