短編小説サイト 死んだ恋人を捜して
A BUENA HANBRE NO HAY PAN DURO(空腹にまずいものなし)
1
湿気と潮気で店は腐りそうだ。
港湾都市の、産業道路と倉庫と工場の合間に取り残された古い商店街の奥に、ファーストフードショップ、ディンゴ・カフェがある。
中南米幻想を安っぽくなぞった内装。赤土色の壁には、コロナビールの空き瓶がずらりと並び、ソンブレロとメキシカン・インディアンのタペストリーが飾られている。旧式のプロジェクターが常時メキシコの歌謡番組を流す。ロス・ロボスにカフェ・タクバ、それにもちろんジプシー・キングス。
客席の真ん中には、マンガの犬のFRP像が立ち、粗暴な客の絶好の攻撃目標になっていた。ディンゴ・カフェのシンボルキャラクター『ディンゴ・ザ・ドッグ』は、チームの名前や族の名前や卑猥な記号のマジック書きに埋め尽くされている。
店員の安藤は退屈に耐えながら、三年間カウンターの中に立ち続けている。
十月に二十二歳になったばかりだ。癖のある太い髪の毛と、大きな近視の目。器用で頑丈な手。造作の派手な顔には、あまり表情がない。
黄色にディンゴ・ザ・ドッグがプリントされたユニフォームは油染みで汚れている。仕事にはすっかりうんざりしていた。
「ちょっと、このハンバーガー、腐ってるわよ」
子供連れの女性客が、カウンターに食べかけのハンバーガーの包みを持ってきた。「ああ……」
安藤の鼻先にハンバーガーを突きつける。
「ディンゴ・カンガルーバーガーですか。これはこういう味なんですよ」
そう言って厨房の方を見ると、調理係のガンさんが廃棄済みのポリタンクの中から、クローン培養肉を取りだしているところだ。このクソオヤジ、と安藤は頭の中で呟く。
「食中毒が、今、どれだけ流行っているか、知ってるの? 新しい病原菌が次々みつかってる。昨日も千葉で二十人入院したのよ。子供を殺す気?」
客は、まとわりつく子供の肩を叩いた。三つか四つの男の子で、ディンゴ・チリ・チップを指ごと口の中に突っ込み、よだれをトレーナーの胸の、戦隊もの特撮番組のプリントに垂らしている。
安藤はディンゴ・カンガルーバーガーを客の手から取り上げた。
「腐ってない」
安藤は食べかけのハンバーガーを大きくかじった。
「腐ってないぞ」
もう一口かじり、咀嚼しながら低い声で繰り返す。客は眉をひそめた。
「店長を呼びなさい」
「店長はいないよ。俺が店長代理だ」
安藤はハンバーガーをカウンターに置くと、レジを開け、カンガルーバーガーの代金を取り出した。
「三百五十円と消費税十七パーセントの四十二円で、三百九十二円」
小銭をカウンターに並べる。
「ここから三十メートルくらい行くとマクドナルドがある。ビッグマックでも食ってください」
客は金を受け取ると、安藤をにらみつけ、子供を引っ張って出ていった。
自動扉のところで、入れ違いに入ってきた小泉ルミとすれ違う。ルミちゃんは学生で、夕方だけディンゴ・カフェでバイトしている。
「今のお客さん何か怒ってなかった?」
カウンターをくぐりながら、安藤に言う。
ルミちゃんは小柄で可愛い。ショートカットにした髪が丸い顔によく似合う。人間に化けたコアラかウォンバットみたいだ。
「別に。いいんだ」
「ふうん」
安藤は厨房に行き、ガンさんの肩を叩く。ポリバケツを蹴りながら、安藤は言う。「これは廃棄済みの肉だって言ったろ」
「……やあ、安藤君」
ガンさんがのんびりした口調で言った。ガンさんは安藤の倍近い年齢だ。ガリガリに痩せ、白髪交じりの長髪を後ろで束ねている。小皺の多いざらざらした肌は、風雪に晒されたインディアンのような威厳があるが、黄色いポップなユニフォームとはまったく調和しない。
「ここの肉は使うなって。賞味期限が過ぎた肉は捨てなくちゃならないんだよ」
「……十分食べられる。捨てたんじゃ、動物の魂が浮かばれない。偉大なる弥勒(マイトレーヤ)の恵みは世にあまねく、食品加工用の動物にも及ぶ。僕がいたカルカッタの寿司バーでは絶対に残さない」
「ここはカルカッタじゃない。横浜だ。マイトレーヤの管轄外だ。大体、クローン培養の太腿に魂なんてあるもんか」
ガンさんはインド帰りだ。ガンさんのガンはガンジーのガン、ガンジス川のガン、ガンジャ煙草のガンだ。安藤はガンさんが好きだが、調理人には全然向いていないと思う。とにかく浄/不浄の観念が普通の日本人と違いすぎるのだ。
「いいか。衛生管理局のファシストどもに目をつけられたら、俺もあんたも店長も無事じゃあ済まない。絶対にここの肉は使うな。肉は冷蔵庫から出すんだ。わかった?」
ガンさんはしばらく考えている。自分の基準と世間の基準が違うことは、薄々感じているらしい。
「……わかったよ。安藤君」
ガンさんはそう言うが、どうせ三日もすれば自分の道徳律に従い出すに決まっている。
店長に相談したこともあるが、心優しく優柔不断な店長は面倒そうに首を振っただけだ。店長は坊ちゃん育ちで、祖母から受け継いだ持ちビルの家賃で、十分に食べていけた。ただ、妻子の手前、働かなくては、「大人の男」としてまずいと考えたようだ。だから、そのビルの一階に、フランチャイズのディンゴ・カフェを開いたのだった。
「この前、町田のディンゴ・カフェに行ったら、ピカピカだったぜ」
常連客で友達の塚原が、ストロベリー・シェイクを頼みながら、カウンターの安藤に言った。
「客は次から次へとやってくるし。店員は高速度撮影みたいに凄い動きで働いてる」
安藤はレジにシェイクの代金を打ち込む。「二百四十六円」
「なんでここはこんなにさびれてるんだ?」
金を受け取り、ストロベリーシェイクと釣りを塚原に渡しながら、安藤は答える。「ディンゴ・カフェはマクドナルドとかと違って、大幅に各店の自由を認めてるんだ。だから……」
「だから、店長のルーズさがそのまま出てるってこと?」
「まあそう」
塚原は顔色の悪い痩せた文学青年で、自分勝手でとても怠惰だ。まともな稼ぎはなく、どうやら詩を書いているらしい。厚化粧の鳥ガラみたいな母親と、母親の愛玩犬の『チャッピー』、それにたくさんの観葉植物とともに暮らしている。皿を洗うと、母親が一日五百円くれるのだそうだ。黒い長いダッフルコートを着たまま、図書館が閉まる七時すぎから閉店の十時まで、ストロベリー・シェイク一杯でねばる。
塚原と安藤の出会いは幼稚園にさかのぼる。学校も一緒で、変わり者を標的にする野蛮な男子生徒から、いつも安藤は塚原をかばってきた。
安藤は塚原のトレイに、こっそりチリ・チップスを載せる。
「ありがと、ソーちゃん」
安藤の名前は聡吾というのだ。
「ソーちゃんって呼ぶな」
塚原の背中を見送りながら、安藤は塚原の言葉を考える。(町田のディンゴ・カフェはピカピカ)
他の店は、どうしてあんなにちゃんとしているんだろう。活気のある店とない店とは、一体何が違うんだろう。
店長にやる気がないんだ、と安藤は思う。最近はひどすぎる。店に出てきさえしない。
店員も俺以外のまともなやつは、みんな逃げてしまった。残っているのは、ガンさんに、昼のパートのリャンさん。リャンさんは外見は上品な奥さんなのだが、日本語をテレビで覚えたから、『ゲロシャブーゥ』などという喋り方をする。
ルミちゃんはまあマシだったけど、今は恋でおかしくなっている。相手は塚原アキヒロで、今もテーブルを拭くふりをして、塚原のまわりをうろつき、熱心に水族館に誘っている。
「金ない」
塚原はそっけない。
「車、兄ちゃんの借りるから。あたしが運転してく。お金なんか全然いらないよ」
「なんで僕がバカなサカナとかペンギンショーとか見なくちゃいけないんだよ」
「詩、書けばいいじゃん」
「魚の詩? 僕はシュールレアリストじゃない」
噛み合わない会話を聞いていると、疲労と倦怠がますますひどくなった。
「ツカちゃん」
安藤は口をはさむ。
「ルミちゃんは水族館だけが目的なわけじゃないだろ」
ルミちゃんが照れて笑い出す。
「やだー安藤君」
「魚は口実だろ。帰りに小じゃれたレストランでワインかなんかひっかけて、暗い埠頭に車止めてベタベタしたいんだって」
「……ああ」
塚原は疑問が氷解したらしかった。
「僕とやりたいわけ」
「……っていうか、つきあって欲しいの」
ルミちゃんが笑いながら言った。塚原が安藤をふりかえり、露骨に非難の信号を送った。
「めんどくせえ」
塚原は本当に面倒そうに言った。
「そんなかったるいことはいやだね。大体、君とつきあって、君とやれる以外何か僕にいいことがあるわけ?」
もう少しマシな断り方があるはずだとも思うが、安藤は何となく気が晴れる。
ルミちゃんは、塚原のコートの襟を掴み、頬を拳で殴った。塚原が病気のカラスみたいに床に崩れる。ルミちゃんは塚原の椅子とテーブルを続けざまに蹴った。ルミちゃんは黄色いユニフォームを脱ぎ、安藤に投げる。
「もう帰る! あの自称詩人のバカがここに座ってる限り、あたしは働かないからねっ」
ルミちゃんは事務所からコートと肩掛けカバンを取ってくると、ガンさんバイバイと言って、自動ドアを駆け抜けていった。塚原はのろのろ起き上がりながら鼻血を拭いている。また労働力が減った。
閉店後。
塚原は客なのにまだうろうろしている。ガンさんは安藤に言われるまま、不器用にモップをかけた。ワックスは埃と混ざり、床に汚れた縞を作る。『清潔がイチバン!』と印刷された衛生管理局のポスターがむなしく黄ばんでいる。清掃会社の作業員は、店長が契約を更新しなかったらしく、いつの間にか来なくなった。
店長は今日も顔を出さなかった。
今年の初め、奥さんが子供と一緒に消えてしまって以来、完全に鬱状態になっていた。俺がいなかったら、この店は完全におしまいだなと安藤は思う。レジの金を全部掴んで逃げ出したところで、店長は警察に届ける気力すらないかもしれない。
ガンさんと塚原はしばらくして帰っていった。
安藤はディンゴ・カフェの地下の、自分の部屋に潜る。
昭和三十年代、店長の祖母がビルを建てた時、また戦争が起きた場合の避難壕として作った地下室だ。物置として使われていたのだが、安藤が勝手に住み着いている。
内装はされていない。床も壁も天井も、コンクリートがむきだしのままだ。じかに敷いたマットレスの所まで、靴のまま歩いてゆく。明りは小さなスタンドだけ。
朝九時から夜十時までの労働。去年までは早番遅番の区別があり、何日か続けて休むこともできたのだが、店長がほとんど機能していない今の状況では、一番古参の安藤がなるべく出ないわけにはいかない。
マットレスに座ったまま、ジンのビンから直接飲む。拾ったテレビがろくでもないニュースを流す。北陸のどこかの産院で、黄色と紫の赤ん坊が大量に生まれた。南洋の島が水没した。食品テロリストがクローン工場に病原菌を仕込み、衛生管理局に逮捕された。消費税は今度二十パーセントになるらしい。
チャンネルを替える。白人の老婦人が吹き替えの日本語で話している。「キダチヒマラヤシダを鉢植えにする時は……」別のチャンネル。変なバンドのベタベタした歌。別のチャンネル。アニメ。安藤はテレビを消す。頭痛がした。足に汚れた血が全部溜まっているような気がする。
「疲れてるな」
帰りがけに塚原が言った。
疲れてるよ、ツカちゃん。安藤は空想の中で塚原に愚痴をこぼす。
店はだんだん駄目になっていくように見える。あちこちにすぐに埃がたまり、肉は腐り出す。トレイにはガムシロップがべたべたとこびりつく。冷蔵庫には霜がびっしり。店はたえず崩壊しようとしている。俺はたえず戦わなくちゃならない。もう疲れた。
『多分、休息が必要なんだよ』
想像の中の塚原が言った。
『あと、何か楽しいこと。何か素晴らしいこと』
『素晴らしいこと?』
『新しい思想。新しい世界。何でもいいんだ。かっこいい音楽でも、面白い本でも、優しい女の子でも。空がきれい、だけでもいい』
ああ、詩人が言いそうなことだ。
テレビとスタンドを消し、毛布にくるまった。頭に鳴り響いているのは、昼間、文句を言ってきた客の声だ。くそ、あの女があの汚い子供ごと今すぐ死にますように。しかもなるべくむごたらしくお願いします。
それより。とにかく、ルミちゃんをなんとか引き止めなければ。ツカちゃんに電話でもかけさせようか? 猫撫で声で謝らせるか。
ルミちゃんを振ったツカちゃん。せめてやっちまえばいいのに。せっかく俺が親切に取りなしてやろうとしたのに。何一つまともにできず、母ちゃんにもらう金と万引きで生きてるくせに。畜生、ツカちゃん。
眠りに近ずき、意識がうすれるにつれ、押し殺した想念が浮かび上がってくる。
バカ詩人の生活無能力者。俺はツカちゃんを何か酷い目に遭わせたい。後ろから蹴りを入れて、あのスカした顔にチリソースを塗りたくってやりたい。
……いやがるルミちゃんのセーターをまくりあげて、小さい乳房を乱暴にこねまわしたい。……ガンさんを生ゴミと一緒に清掃車に突っ込みたい……。
いや、俺はあいつらが好きだ。……もううんざりだ。何もかも無意味だ。大事なものなんて何もない。
2
翌日の昼間。安藤は電話に出る。
「はい、いつもありがとうございます。ディンゴ・カフェ南杉田店です」
中年の女性の落ち着いた声。『しあわせ銀行の白石と申しますが、店長の長田様はいらっしゃいますか』
「ああ、あの、ちょっと今出てます」
『いつごろ戻られますでしょう』
「ええと……」戻るも何も、店に来ないのだ。「ちょっとわからないので、戻ったら電話を入れるように伝えます。銀行って五時までですか? あの、何時くらいまで」
『何時でもいいからお電話をいただきたいのです』
ディンゴ・カフェの歴史は店員なら誰でも知っている。
ホアキン・“ディンゴ”・サンタオラリャがメキシコ国境を越え、ロサンジェルスのヴェニス・ビーチにディンゴ・カフェ一号店を出したのは一九七〇年代のこと。ディンゴ・カフェは安いタコスやチリ・チップスを売り物にじりじりと全米に広がっていった。
最初の狂牛病パニックの時、ディンゴ・カフェは真っ先に牛肉を捨て、イグアナやダチョウの牧場と契約を結んだ。新世紀に入り、再び狂牛病が猛威をふるいだすと、ディンゴ・カフェの成功は確約されたも同然だった。
現在、ホアキン・ディンゴはカリブで釣り三昧の日々を送り、成長した息子が跡を継いだ。二代目ディンゴ・キング、ガルシア・サンタオラリャの姿は、店の宣伝ビデオや広報誌でいくらでも見られる。闘牛士のように、野性的で情熱的な雰囲気の、超美青年だ。
夕方。
ディンゴ・カフェの魅力的な二代目オーナー、ガルシア・サンタオラリャがモニターに映っている。フリルのついたブラウス、金の縫い取りのある黒いヴェルヴェットのベスト、胸元には赤いバラというイカれた衣装だ。英語の語りに字幕がつく。
『日本のみなさんも、ディンゴ・カフェで素晴らしい時間を過ごして欲しい』
胸元のバラを取り、ガルシア・サンタオララは演劇的な仕草で顔をうつむけた。浅黒い肌に濃い影を落とす、長い長い睫がアップになる。ゆっくり瞼を開きながら、バラにくちづけた。次の瞬間、宙を切るようにバラが投げられる。
「うひゃー、かっこいい」
隣のレジで、ルミちゃんが言った。
安藤が昼間、携帯に電話し、出てくるように延々と説得したのだ。というよりむしろ、泣き落とした。塚原は今日もシェイクを片手に、小難しい本を読んでいるが、ルミちゃんは完全に無視していた。
夕食時で忙しくなっていた。
「いらっしゃいませ」
男子高校生の群れがカウンターに肘をつきながら、次々と注文する。多分、安藤と同じ高校の後輩だ。
「ディンゴ・カピバラとトルティーヤとチリ・チップス、サボテンサラダ、コーラのLが二つにルートビアのM一つですね」
安藤が復唱しながらレジに打ち込んでいると、背後の厨房から、幽霊のような声でガンさんが呼んだ。
「……安藤くーーん」
「お先に会計させていただきます。税込みで二二九六円になります」
「別々にして」
「安藤くーん」
ガンさんの呼び声。
「わかりました。じゃあ、カピバラとルートビアのお客様……」
三人の高校生に一人ずつ釣りと番号札を渡す。
「出来上がったらお呼びしますので」
そう言ってから、安藤は厨房に駆け込む。「どうしたんだよ」
ガンさんが泣き出しそうな顔で、レンジの前に立っていた。
「レンジが動かないんだ」
「畜生」
安藤はキレそうになりながら、ステンレスの流しを蹴る。忙しい時なのに。
「わかった。じゃあ、とりあえずフライパンがあったろ。バンズはあれで暖めて。肉はお湯沸かして解凍するんだ」
「うん……うん」
ガンさんはのろのろと厨房の天袋を開ける。「ディンガル・イチのトル・イチ、ディンカピ・イチ、サボテンサラダ・イチ。あとチリ・チップ。わかった?」
別の客の注文を受けた、ルミちゃんの声が届く。
「ダチョウバーガー二つとエンチェラダ、お願いしまあーす」
「うわああ」
ガンさんがパニックになる。安藤はメモ帳にオーダーを殴り書きし、調理台に叩きつけるように置いた。
「順番に作っていけばいい。今、助手をつけるから」
「助手?」
「いいから早く、バンズを焼けよ」
安藤はカウンターをくぐり、客席フロアに走り出る。畜生、修理を頼まなくちゃ。修理代はどこから出せばいいんだ? こんなの俺の仕事じゃないぞ。俺はただのクソバイトなのに。
カウンター席で背を丸め、『象徴交換と死』とかいうタイトルの本に熱中している塚原の首に、背後から腕を巻きつけた。
「うわ」
塚原が過剰に驚きながら、顔を上げた。形而上の彼方から急に引き戻されたらしい。「……ソーちゃん」
「ツカちゃん。ちょっと頼む」
「え?」
「ガンさんの助手」
「僕はここのバイトじゃないぞ」
「わかってる。後でおごる。バイト代出してもいい」
塚原は本をテーブルに伏せ、仕方無さそうに立ち上がった。一緒にカウンターをくぐり、コートを着たままの背中を叩いて、ガンさんのところに送り出す。
やれやれ。カウンターに戻ろうとして、揚げもの用の油槽の横を通りかかった。煮えたぎった油の、チリ・チップを入れるカゴの横に、奇妙な赤い花びらのようなものが見えた。めくれ上がった羽、ヒゲのはえた小さな足。花びらはよく揚がったゴキブリだった。
安藤はめまいを感じながら、フライドゴキブリをオタマですくって流しに捨てた。走ってカウンターに戻り、ドリンク類を用意する。
しばらくして、あいかわらずコート姿の塚原が高校生たちの注文の品を届けてきた。番号を呼んで、商品を渡す。
「……で、山崎、単車パクって。それ超毛虫で。マジでガビッシュ」
高校生たちは極端なスラングを使った会話をし、笑いながらテーブルを占拠し、食べ始めた。安藤は恐る恐る様子を伺う。少年たちは平気で食べ、制服姿で煙草を吸っている。いつもと味が違うことに、気づいていはいないようだ。
どうせ、ディンゴ・カフェの食べ物がまずいのは周知の事実なのだ。
夕食時の人込みが一段落したころ、入り口の自動扉が開いた。反射的に『いらっしゃいませ』と叫ぶ。
入ってきたのは店長だった。三十代後半の百八十センチ近い大柄な男だが、なんだか小さくなったようだ。無精ひげが伸び、目が赤い。よれよれのトレーナーにサンダル、にせもののMAー1。
「一週間ぶりじゃん」
安藤は嫌味を込めて言った。
「安藤君。ごめん」
「何やってたんだよ。何度電話しても出ないし」
「ごめん……ごめん。出れなかったんだ」
店長は哀れっぽく言った。酒臭い。よく見ると震えている。十五以上年下の安藤を、本当に怖がっているようだった。
「……あんた、病院行ったほうがいいんじゃないか」
なんでこんなことになったんだろう。以前はこんなではなかった。おおらかに、てきぱきと仕事をこなした。わからないことは何でも店長に訊けば良かった。麗羅(レイラ)ちゃんという名前の娘を可愛がり、安藤が家に遊びに行くと、クラシックカーの模型の高価なコレクションを楽しそうに披露した。
今年の初め、奥さんとレイラちゃんは新しいパパのところに行き、店長は店と一緒に崩れ始めた。店長を人間として成り立たせていた凝集力がほどけてしまったように、安藤には見える。
「さっきレンジ壊れたぜ」
「レンジが壊れた……」
どう対処していいかまったくわからないようだった。
「何でもいいや。金くれれば修理頼んどく。あと、本社からの通信がメールで色々来てる。俺がわかるぶんは返事しといたけど、残りチェックしてよ」
「わかった」
「あと、しあわせ銀行の白石さんって人から電話があったよ」
「……なんて?」
店長の声には恐怖がにじんでいた。安藤は店の経営状態を想像する。よくわからないが、売上は確かに昔より落ちている。かなりまずい状態なのかもしれない。
「何時でもいいから電話くれって」
「あー」
店長はカウンターをくぐり、よろけながら控え室兼事務所に消える。
電話が鳴った。
しばらくして、店長が真っ青な顔で現れた。「……たいへんだ。ガルシア・サンタオラリャが来る」
「え? あの、二代目の?」
「うわー、やった!」
ルミちゃんが喚声を上げる。
「何、視察?」
安藤はクラクラしながら訊く。一体どれくらいの準備をしなければならないだろう。「なんか、来日中で支店を見てまわりたいんだとか……。本社の人が言うには、気さくな人だから、普段のままでいいって……」
「普段のままもクソも、こんな状態見せられるか。で、いつ?」
「明日の午前中だって」
「あ、あたし学校サボって見にくる!」
ルミちゃんは嬉しそうだ。
「畜生、徹夜で掃除だ」
レンジはどうする。電気屋に泣きつくか。
「そうだ、ルミちゃん。ルミちゃんちの母ちゃん、ケーキ焼くの得意とか言ってなかったっけ」
「え? うん」
何度か差し入れをもらったことがあるのだ。
「じゃあ、レンジのいいのがあるだろ」
「うん。今年買い替えた。レンジとオーブン兼用のでっかいやつ」
「それ、明日一日貸しといてくれないかな」
「ああそうか……壊れちゃったんだもんね。うん、大丈夫だと思うよ。車で持って来るよ」
安藤は壁の時計を見る。八時四十分だった。閉店まで一時間ちょっと。
「店長。もうあんまり忙しくないから、ルミちゃんにレンジ取りに行ってもらっていいだろ」
店長はぼうっとしていた。
「おい店長」
店長は機械のように首を縦に振る。安藤はルミちゃんに言う。
「じゃあ頼む」
「店閉まるころには戻ってくるよ」
ルミちゃんは事務所から荷物とコートを取ってくると、外に出ていった。
安藤は疲れきっていた。店が終わっても延々と掃除をしなければならないと思うと、ますます疲れた。ラテン音楽のBGMにノイズが混じる。何もかも寿命らしい。
「ツカちゃん」
厨房とカウンターの間に、暇そうに突っ立っていた塚原に話しかける。塚原はまだコートを着ていた。
「ああ、ソーちゃん。いや、安藤君」
「店終わってもちょっと残ってくれない?」
「なんで?」
「一緒に楽しく掃除しようぜ」
塚原がせせら笑った。「何か僕にメリットは?」
「明日、従業員のふりしてガルシア・サンタオラリャと握手していいよ。制服貸すから」
「あのケバい二代目か。なんか手、脂ぎってそうだな……」
塚原と話すといくらか落ち着く。塚原はレジカウンターの、安藤のすぐ隣に立って、声を低める。
「休みは取れないの?」
「うーん。今の調子じゃねえ」
「安藤君、なんか今ほとんど店長状態じゃん。ガルシア・サンタなんとかが帰ったら、二三日、店ごと休んじまえよ」
「ああ……その手もあるな」
ファーストフードショップはたいてい年中無休だが、別に休んだって構わないのかもしれない。
「今にも切れそうに見えるぞ。旅行でも行ったら?」
「旅行ねえ」
「近場なら僕も行ってもいい」
特急電車に乗って、どこかの山の中に行く。潮気のない空気は木の香りがするだろう。
温泉に入って、ストリップでも見て、死ぬほど酒を飲む。糊のきいた浴衣を着て、柔らかい布団に寝転びながら、塚原の浮き世離れした話を延々と聞く。
「楽しいかもな」
ここでないところ。ディンゴ・カフェと自分の部屋と近所のコンビニエンス・ストア以外の場所が存在していることを、安藤はほとんど忘れかけていた。
「行こうよ。それくらいしてもいいだろ。宿は僕が安いとこ探すから……」
自動ドアが開いた。塚原は喋るのをやめ、厨房にひっこむ。
「いらっしゃいませ」
白衣の男が二人入ってきた。
一人は五十前くらいで、もう一人は若い。三十になるかならないかといったところか。二人とも中肉中背で、角張った眼鏡をかけていて、印象は妙に似通っていた。若いほうは、大きな銀色のケースを下げている。
左腕に青と白の腕章。安藤は思わず失神しそうになる。衛生管理局だ!
年上の男が身分証明書を見せながら言った。衛生管理局神奈川支部対飲食店第二課主任、牧田紀男。
「店長を呼びなさい。衛生管理局の牧田だ。これから抜き打ちの検査を行う」
3
二十世紀末、日本の社会は清潔という観念に取り憑かれていた。ドラッグストアの店頭には清潔グッズが大量に並び、何もかもが抗菌加工された。世紀が変わり、やがて、駆逐されたはずの雑菌は復讐を始めた。
水や食物に混ざった新種の細菌が次々と食中毒を引き起こした。抵抗力の弱い子供たちが何百人と犠牲になり、親たちはヒステリックに政府を責めた。
もともと食中毒の予防は厚生省の企画衛生局の管轄だったが、より強力な対応のできる、新しい役所が作られた。警察並の捜査力と権限を与えられた、食中毒予防のための特別機関。衛生管理局だ。彼らには逮捕権まであるのだ。
「店長を呼びなさい」
牧田という局員が言った。
「ひどいな」
もう一人、若いほうの局員が、落書きだらけの『ディンゴ・ザ・ドッグ』のマスコット像を見ながら呟いた。
二組いた客は、食べものを残したまま、足早に逃げ出してしまう。
「店長!」
安藤は事務所に叫ぶ。返事はない。
「君はアルバイトかね。君のユニフォームは不潔だ。それにそのボサボサの髪をなんとかしなさい」
「店長は奥の事務所にいる」
二人の局員はカウンターをくぐった。安藤は暗澹とした気分で局員を事務所につれていく。
点滅する蛍光灯の下の、ロッカーとパソコンデスクの間に、店長は隠れるように座っていた。
「店長の長田さんだね。我々は衛生管理局から来た」
牧田が言った。店長はきょとんとしたまま、衛生管理局員の真っ白い制服に、眩しそうに目をしばたかす。
「昨日、おたくの客から腐ったものを出されたという通報があった」
あのクレームをつけた女だ。あのクソ女、追いかけて後ろから殴り殺しておくべきだった。
「今から調理器材と食品の検査を行うので、立ち会いなさい」
厨房では、塚原とガンさんが待っていた。
局員は足早に、冷蔵庫の前に歩いて行く。若い局員が歩きながら、ジェラルミンのケースを開けた。ゴムの手術用手袋を取り出してはめる。
「まるでゲシュタポだな」
腕組みした塚原が呟く。
安藤は局員に見つからないように流しに近づき、先程捨てたゴキブリを排水口深くに押し込む。事務所に戻り、陽気なBGMを消した。
静まりかえった厨房に目をやると、改めてとんでもなく汚いことに驚く。白いタイルの床にもステンレスの調理台にも、油や肉汁やチリソースがしみつき、隅には埃が積もっている。営業停止という言葉が自然に浮かぶ。
業務用冷蔵庫の、霜がびっしりこびりついた中から、若い局員が肉を取り出した。「収去検査を行います。局に持ち帰って食べ物を分析するんです。まあ、この店の場合、全種類ですね。普段はそこまでしないんですけどね」
若い局員はけがらわしそうにそう言うと、持参の銀色のパックの中に肉を入れた。
牧田は調査票にメモしながら、流しの扉を一つ一つ開け、のぞき込んでいる。
「わっ」
牧田が叫ぶと同時に、小さな羽のある虫が、いっせいに飛び出すのが見えた。牧田は床に膝をつき、扉の中に上半身を突っ込む。
牧田は顔を出すと、黒い小さな塊を店長に突きつけた。
ボロボロに腐ったネズミの死骸だった。
「何だこれは! ウジが湧いてる!」
牧田は本当に怒っているようだった。店長の首を締めんばかりにして叫ぶ。
「いったいこの店はどうなってるんだ? こんな汚い店は初めてだ。いいか、食中毒でたくさんの死者が出てるんだぞ。客の安全を何だと思ってるんだ。君は社会的責任をどう考えているんだね!」
牧田の言葉は安藤にも刺さった。店長は、怒鳴る牧田の唾を顔に浴びながら、黙って怯えている。
「やめろ。店長はいい人なんだ」
ガンさんがそう言った。同時に、ぶあつい「まな板」を牧田の頭に振り降ろした。
牧田はうなりながら後頭部を押さえ、床に膝をつく。塚原が慌てて肩を掴むまで、ガンさんはまるで餅つきでもするように、うずくまった牧田を打ち続けた。
「うああ、なんてことを! 牧田さんが」
若い局員が裏声で叫ぶ。塚原がひきつった顔で安藤を見た。自分も同じような表情をしているだろうと思う。
「衛生管理局員に暴力をふるうなんて! ただじゃ済まないぞ。おまえたち、ぜ、全員逮捕だ」
若い局員は半泣きの声でわめく。
「不潔なプータロー……低学歴の敗残者……ジャンクフードの食品テロリスト……」
塚原が目配せする。安藤と塚原は局員に飛びかかった。
「何するんだ」
若い局員が悲鳴をあげる。塚原が局員を背中から羽交い締めにすると同時に、安藤は、体重を込めた拳を腹に入れる。局員の銀縁の眼鏡がずれ、口から夕食のどろどろの液体が漏れ出した。
安藤は事務所に駆け戻り、ガムテープとハンバーガーの包み紙のストックを取ってくる。局員のゲロだらけの口を開けさせ、印刷のディンゴ・ザ・ドッグが笑う包み紙を丸めて突っ込み、テープを貼りつける。
ガムテープで局員を縛り上げていると、表で車の止まる音が聞こえた。
ルミちゃん。レンジを取りにいったルミちゃんが戻ってきたのだ。
自動ドアが開く音がする。
「安藤くーん。ガンさーん。店終り? 誰もいないの?」
ルミちゃんの細いソプラノ。
「ツカちゃん」
安藤はガムテープをちぎりながら、声を押さえて怒鳴る。
「レンジだけ受け取って追い返せ。絶対に巻き込むな」
塚原はカウンターをくぐって客席に走っていく。
牧田が身じろぎした。安藤は牧田にも若い局員と同じ処置をするために、床に膝をついてにじり寄る。
「塚原君じゃん」
ぐったりした牧田の口を、テープで封印する。ルミちゃんの険のある声が聞こえてくる。
「部外者が何してるのさ。安藤君は?」
「何か……ええと。掃除道具、買いに行った。ガンさんも。……レンジは車? 僕が持つよ」
「いいよ。あんたここのバイトじゃないじゃん。お客様にそんなことはさせられません」
ルミちゃんは昨日の塚原の仕打ちをずっと怒っているらしい。
「昨日はごめん。君にあんなふうに言われるなんて、なんか信じられなくてさ。どうしていいかわかんなくて、反射的に乱暴なこと言っちゃった。だけど、ええと、本当は嬉しかったんだ。今度水族館連れていってよ。一緒にカニとかウニとか見たいな」
塚原が適当なことを早口で喋りまくるのが聞こえる。ルミちゃんの声が柔らかくなった。
「ほんと? ほんとに行く?」
「うん。夕べは嬉しくて眠れなかった」
嘘つき野郎。ガムテープで縛り上げた牧田を床に転がしながら、安藤は呟く。
自動ドアが開き、話し声が遠ざかる。
しばらくして車が発車する音が聞こえた。塚原が一人で戻ってきて、抱えていたレンジをカウンターに置いた。
「どうする?」
塚原が訊いた。
「とりあえず地下室に移そうか」
安藤は立ち上がり、局員の背中を軽く蹴った。
店を閉めてから、若い局員を四人がかりで地下に運ぶ。縛り上げられた芋虫のような局員は、階段を降りる間中、もがき続けた。踊り場に乱暴に下ろす。
「店長。こいつ見張っててよ」
次は牧田。安藤は、すぐ前を昇っていく塚原に尋ねる。
「ツカちゃん、さっきキスくらいしてやったのか」
「……どうしてこんな時に、そんなバカなこと考えつくんだよ」
牧田を抱え、地下に戻る。
地下室。倉庫兼安藤の部屋。ここ一年ほど、地下室には安藤以外誰も入っていない。
紺色の鉄の扉を開ける。安藤はスタンドとエアコンをつけた。
以前のキャンペーン用の「のぼり」やポスターの束と、マットレスとテレビだけのうそ寒い部屋に、局員たちを担ぎ込む。
コンクリートの床に二人を転がした。
転がった衛生管理局員を囲んで、四人はしばらく口をきかなかった。塚原が安藤の寝床の、でこぼこのマットレスの上に座る。
マットレスに塚原と並んで腰掛けると、非現実感に襲われた。そういえば、明日ガルシア・サンタオラリャが来るんだっけ……。そう聞いて焦ったのが、ずいぶん昔のような気がする。
店が病的に汚いくらい何だっていうんだ。今の状態に比べれば。……今や、なんと犯罪者だ。
「煙草ある?」
塚原に訊く。塚原は黙ってコートのポケットからハイライトを出した。自分も一本くわえ、火をつけてからライターを投げて寄越した。煙草はほとんど吸わないが、今は必要だと思う。
「……ごめん。僕があの人を殴ったりしたから」
ガンさんが言った。
「店長を助けたかったんだ」
大きな体を丸め、店長はぼそぼそ呟く。
「ガンさんのせいじゃない。何もかも俺が悪いんだよ。……俺なんか死んだほうがマシだ……君たちにまで迷惑かけて……。もうおしまいだ、死んだほうがいい。俺はクズだ……」
自虐の発作を見せられると、ますます気が滅入る。安藤は煙草をひねりつぶしながら、言った。
「なんか考えようよ。対策」
飲食店の従業員が抜き打ち検査に来た衛生管理局員を殴打し、縛り上げて監禁したとなったら、いったいどれくらいの罪になるだろう。街のケンカとはわけが違うはずだ。
自分はともかく、塚原やガンさんを警察の手に渡したくなかった。塚原もガンさんもただの能無しの社会不適応者として手荒く扱われるだろう。塚原の詩才も特殊なユーモア感覚も警察や法廷では何の役にも立たない。おまけにガンさんには麻薬所持の前科がある。
殺す、という言葉が浮かんだ。消してしまえ。死体は切り刻んでハンバーガーにすればいい。
安藤は首を振った。映画じゃないんだ。殺人なんてできるもんか。
全身がこわばっていた。気持ちが悪い。吐きそうだ。
……それに、だめだ。きっとこいつらは役所に行先を届けてあるに違いない。朝になって、二人とも出勤しないと、絶対にここが怪しまれる。
「要は、この二人が好意的な報告をすればいいんだろ。ディンゴ・カフェの衛生状態には何の問題もないって」
塚原が言った。若い局員のすぐ脇にひざまずく。局員のズボンのポケットから財布を取り出した。
二つ折の財布を広げ、中をのぞいている。
「この写真、奥さんと赤ちゃんか」
局員の返事は当然ない。塚原は名刺を見つけたらしく、読み上げる。
「衛生管理局神奈川支部対飲食店第二課、唐久根(からくね)邦也。変わった名前だね」
塚原は財布から札を全部抜き出すと、自分のポケットに入れた。
「……こんな目に合ったやつらに、どうやっていい報告をさせる? 放したらすぐ、警察と衛管、百人くらい連れてくるぜ」
「写真」
塚原が言った。
「写真を撮ってやればいい。唐久根君と、こっちの偉い牧田さんだかとの素敵な愛情物語。ていうか、スネ毛からましたハードコア職場恋愛の写真……同性愛は趣味としちゃ文句のつけようがないけど、そんなものをバラまいたら出世は難しいだろ」
素晴らしく下劣なアイディアだった。唐久根が目を剥く。
「ひでえ」
安藤は思わず呟く。塚原が腹だたしげに言った。
「殺すよりマシだろ」
下劣だが、よくできた案かもしれない。牧田が暴れ始めた。鼻で荒く呼吸する。薄い生え際まで真っ赤に染まり、汗が流れていた。発情期のトドのようにもがき、声にならないうなりをあげる。
人間の威厳というのはこんなに簡単に台無しにできるものなのか。
安藤は塚原に言う。
「カメラがない」
「買えよ。コンビニに使い捨てでフラッシュつきのがあるだろ」
塚原が煙草をくわえた。火をつける骨張った手が震えていた。
もっと他に方法がありそうな気もするが、頭が働かない。時計の蛍光表示は十時四十分を示している。安藤の問題処理能力は朝九時から酷使され、とうに限界に達していた。早く終わらせたかった。
こんなことまでしなければならないのだろうか。ささやかな金のために働いていただけなのに。労働にはこんなことまで含まれるのだろうか。……生きていることの代償に、卑劣にならなければならないのか。
「やめよう」
突然、店長が大声を出した。
「そんなことはやっちゃだめだ。俺が自首するから。この人たちは許してあげよう」
「店長が自首してどうすんだよ。やったのは俺たちなんだぜ……」
ガンさんが言った。
「……漂流した時」
「ひょうりゅう?」
ガンさんはいつも唐突に喋り出す。しかも言葉が足りないから、聞き手は言わんとすることを察しなければならない。今は『船が沈んで漂流した場合』について、話しているらしい。
「漂流した時、小さな板が一枚しかなかったら、もう一人の人を溺れさせてもいいんだ」
「弥勒(マイトレーヤ)は何て言う?」
弥勒(マイトレーヤ)はガンさんの頭の中に住む、個人的な神様だ。
「もし、もう一人のために板を譲ったならば、弥勒(マイトレーヤ)は君を称えてくれる。溺れさせたら……ただ、溜め息をおつきになるだけ」
安藤は言う。
「わかった。ガンさん、カメラ買いに行ってきてくれよ」
ガンさんがセヴンイレヴンの袋からカメラを取り出した。
塚原が部屋の隅から空の酒瓶を取ってきて、一本を自分が握り、一本を安藤に渡した。渡しながら訊く。
「どっちがやるほう?」
「やるほうって?」
「ケツを掘るほう」
「若いのがいいんじゃない」
安藤は人質に向かって宣言する。
「事務的に行こう。今からテープを外すけど、暴れたら容赦なく殴る。……やってるフリをしてくれればいい。俺たちは写真を撮る。あんたたちは衛生管理局にこの店はオーケイだと報告する。ここであったことはみんな秘密だ。あんたたちがちゃんとやれば、写真は絶対表に出ない。他の用途に使ったりしない。いい?」
安藤はガンさんに酒瓶を手渡す。
「逆らったら殴るんだ」
安藤は膝をつき、牧田の口のガムテープを外した。唇の皮膚が一緒にはがれ、細い血の筋が垂れた。牧田は咳き込みながら、唾液を吸ったディンゴ・ザ・ドッグの包み紙を吐き出す。しゃがれ声で言う。
「……クズめ」
安藤は牧田の肋骨を蹴った。牧田は体を丸め、再び咳き込んだ。
「このままあんたら二人を残して、鍵をかけちまってもいいんだぜ。誰も来ない。死ぬまで来ない」
牧田の手足のテープをはがした。安藤は牧田に命令する。
「服を脱げ」
ガンさんがいつでも牧田の額に命中させられるように、酒瓶を振りかぶっている。牧田はのろのろと白衣を脱いだ。
「全部だ」
牧田は何度もボタンを外しそこねながら、全裸になる。
唐久根にも同じようにする。生白く不健康な、ぞっとするほど寒々しい役人の裸体。
塚原が言う。
「カメラマンは誰がやる?」
「俺がやる」
「早く済ませよう」
塚原が長い黒いコートのポケットに両手を突っ込み、不機嫌に、局員たちにポーズを指示する。
「あんたは四つん這いになって。あんたは膝をついて、そのオヤジの腰に手を当てて」
安藤はこの光景に既視感を覚える。似たような映像をどこかで見た。……みすぼらしい裸の人たちとクールな軍服の男。多分、ナチスの強制収用所を描いた映画か、本の資料写真だろう。
安藤はカメラを構える。フレームに、いんちきな後背位が写る。誰も勃起しないポルノグラフィー。
この地下室はもう安藤の部屋ではなかった。様々な拷問と残虐行為が行われた、過去のたくさんの地下室と同じ空間だった。七三一部隊にSSにGPU。店長がすすり泣きを始めた。手動の歯車でフィルムを巻き、プラスティックのシャッターを切る。早く。なるべく早く。
フィルムが終わる。
「終りだ」
安藤はカメラをジーンズのポケットに突っ込んだ。白衣をつかみ、裸の局員に投げつける。
牧田も唐久根もお互いに背を向けたまま、服を着始めた。この人たちは明日からどうするんだろう。
そして、俺は? この記憶はいつまでも憑きまとうだろう。これからするかもしれない、ありとあらゆる性的行為は、この記憶に汚されるだろう。セックスもオナニーも、リラックスして楽しめることは二度とないだろう。
それだけではない。衛生管理局という言葉を見ても、白衣を見ても、この記憶は蘇るだろう。忘れる日など来るのだろうか。五十年も六十年も経って、体も脳も衰退し、痴呆の彼方に行くまで、この記憶は消えないのか。
「終りだよっ」
わめきだしそうだ。安藤は店長に言う。
「ガルシアのことはもう知らない」
安藤は言った。
「明日は店長が何とかしてくれ」
店長がうなずいた。
「……後は俺がやるよ」
4
午前三時二十分。安藤は塚原の部屋の床に敷かれた、カビ臭い布団に横たわっている。塚原はベッドにいて、起きているのか、眠っているのかわからない。
小学生のころのことを思い出した。放課後の教室で、塚原が子供たちに囲まれていた。ランドセルの中身を床に放り出され、塚原の持ち物の、小学生らしからぬ書籍(確か、ウィリアム・バロウズの『裸のランチ』)は、子供たちに土足で踏まれた。
「変態つかはら、つかはら、へんたーい」
子供たちの声が唱和する。塚原は泣いていただろうか?
安藤は、体育着入れを投げ回して、いじめっ子たちを追い散らした。
「……起きてる?」
現実の塚原の声が、安藤の回想を破る。
「起きてるよ」
そのまましばらく黙っていた。小学生の塚原は消え、安藤の中の塚原は、詩人で変わり者の二十一歳の友人に戻る。
部屋は暗く、煙草と犬の匂いがする。
何か訊くべきだと安藤は思う。いらついた時にはいつも、空想の塚原の言葉に慰められた。塚原の慰めが欲しかった。何といっても本物が五十センチ横にいるんだから。
「ツカちゃん」
「……ああ」
「なんか……よく思うんだけどさ」
言葉がうまく出てこない。
「いつもいつも、目の前にあることをやるだけで手一杯で、生きてても全然、嬉しくないっていうか……」
こんなことを言っていいのか?
「すげえ、間違った場所に無理矢理引っ張り出されてる感じ。なんか、興味もなくて、ルールも知らないスポーツの試合にいきなり出されてるっていうか……。昔から、やりたいことなんて何もない。何もかも無意味なクソに見える」
本物の塚原が答えた。
「……実際そうなんだろ」
同じころ、ディンゴ・カフェの事務室の中で、店長の長田亮一氏は、高校時代の友人で組関係に進んだ男から手に入れたトカレフを口の中に突っ込み、引き金を引いていた。
5
翌朝。冬の朝の白茶けた商店街。
ルミちゃんがディンゴ・カフェに行くと、早番のリャンさんが所在無げに外で立っていた。店は閉まっていて、人気がない。配送された食材のケースが路端に積まれたままだ。
「おはようルミちゃん。でも、ルミちゃん当番じゃないよね」
三年前に日本に来たリャンさんは、アクセントは少し変だが、上手に日本語を話す。テレビドラマが好きな、三十代後半の主婦だ。
「遊びに来たの。リャンさんまだ知らないんだよね。今日、ガルシア・サンタオラリャが店に来るんだよ!」
「ガルシア・サンタオラリャ? あの超フェロモンな会長さん?」
「そうそう。来日中なんだよ。カメラ持って来たんだ。一緒に写真撮ってもらおうよ」
二人は手を取り合ってきゃあきゃあ騒ぐ。
「……でも、リャンさん、もう九時だよ。なんで店開いてないの。朝っていつもどうなってるの」
ルミちゃんは基本的に遅番なので、開店時のことはよく知らない。
「安藤さんが開ける。今日、遅いね」
「困ったね。安藤君いつも地下で寝てるんだよね。店に電話してみようか」
ルミちゃんは携帯電話を取り出して番号を入力する。何度コールしても誰も出ない。「ガルシアさん、何時に来る?」
「わかんない。午前中だって」
ガンさんが手ぶらでとぼとぼ歩いて来た。
「あ、ガンさんだ」
ルミちゃんが手を振ると、ガンさんも手を振り返した。
「ガンさん、店のカギ、持ってる? 安藤君が起きてこないの」
「安藤君、昨日、塚原君のうちに行ったよ」
「えー、じゃ、そのまま寝てるのかな」
「今日は安藤君は休み。カギは僕が持ってる」
「せっかくガルシアちゃんが来るのに、休みなの? 安藤君って一番働いてるんだから、ガルシアに褒めてもらえばいいのに」
リャンさんが言った。「安藤さん、よく働く。優しい。すごくいい人」
ガンさんはガラスの自動ドアの前にしゃがみこみ、カギを差し込んだ。ロックを解除しながらもぞもぞ呟く。
「その代わり今日は、店長が来るはずだよ」
排気量の大きな車のエンジンの音が聞こえてくる。黒塗りのBMWが滑るように近づき、店の前に停まった。白い手袋の運転手が外に出てきて、ルミちゃんたちに目礼しながら、後部座席のドアを開ける。
たくさんの花がこぼれ落ちるように見えた。オールバックの黒い髪と仕立ての良いコートが現れる。浅黒く、野性的な美貌。長身のガルシア・サンタオラリャが花束を抱えて降りてきた。
「コンニチワ」
日本語で言い、にっこり笑う。
さびれた商店街の真ん中に立っていると、超現実の世界から迷いこんだ王子様のようだ。ルミちゃんとリャンさんは、ガルシアを見上げたまま、金縛り状態になっている。
背広にピアスの若い日本人が出てきて、ルミちゃんたちに言った。
「ディンゴ・カフェ・ジャパンの秋山です。ガルシア・サンタオラリャさんをお連れしました。気さくな方ですから、いつもどおり業務を行ってくだされば結構です」
ルミちゃんは秋山に慌てて言った。
「あ、あのすいません。今日、ちょっと開店が遅れちゃって……店長ももうすぐ来ると思います」
秋山が英語でガルシアに耳打ちしている。ガルシアが何か喋る。
「大丈夫、気にしないで、と言っておられます。ええと、お三方ともここの店員ですか、と訊いてらっしゃいます」
「はい」
ガルシアはリャンさんに右手を差し出した。リャンさんは嬉しそうに握手する。続いて、ぼんやりしたガンさんの手を握り、強く振った。
ルミちゃんが手を出すと、ガルシアは握手の代わりに花束を差し出した。
「ユー、ビューティフル」
低い声でそう呟くと、優雅に腰をかがめ、ルミちゃんの右手の甲に接吻した。
「えー、嘘」
ルミちゃんはうろたえ、それから、照れくさそうに花束を受け取った。
その場にいた全員……リャンさん、ガンさん、運転手、ディンゴ・カフェ・ジャパンの秋山が、いっせいに笑い出す。
ガルシアを囲んだ一行は、楽しげに笑いながら、ディンゴ・カフェの中に入っていった。
copyright: 間瀬純子junko mase
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