短編小説サイト 死んだ恋人を捜して
6
アナスターシャとリョーハは、ダリオと出会った。ダリオ・ビアンキ。
誰かを殺した三ヶ月後に、リョーハは、ヴァシリエフが吐き捨てるように教えてくれたイタリア人興行主に電話した。アナスターシャとリョーハの家には電話がない。公衆電話の横を、たくさんの古い型の車が通り過ぎていく。秘書だという男が出て、ロシア語で言った。『あなたは英語が喋れますか。ミスタ・ビアンキは、英語で取引する』
リョーハは、アナスターシャが英語を喋れるだろうと思った。
リョーハとアナスターシャは、地下鉄を乗り継いで、告げられた住所を訪ねた。ダリオの家は、十八世紀にピョートル大帝が建てた『夏の庭園』のそばの、古い壮麗な住宅街にあった。ネヴァ川のほとりの高級マンションだ。マンションはオートロックで、インターホンに、リョーハが名前を言うと、真鍮のドアは、自動的に開いた。駐車場には、アルファ・ロメオのオープンカーが停まっていて、運転手らしき、がっしりした中年の男が、赤い車体に黙々とワックスを掛けていた。
ダリオ・ビアンキは、小男で、アナスターシャより小さい。年齢は四十ほどだろうか。小さな丸い頭に、黒い髪を油でべったりと撫でつけている。顔の右半分だけを引きつらせて笑う。スーツは高級品で、少し下品だ。
ダリオ・ビアンキが英語で言った。「ミスタ・レーダグロフ、作品は持って来ただろうね」わたしはリョーハにロシア語でそう伝えた。リョーハはうなずき、ダリオ・ビアンキにヴィデオテープの入った紙袋を見せた。リョーハは高い背を屈め、むっつりと黙り込んでいる。
ダリオ・ビアンキのアパートは、王宮かエルミタージュ美術館のように広く、豪華だった。印象派の、花と女性の油絵が、鈍い金色の額に入れられ、何枚も掛けられている。家具はロココ調。天井にはシャンデリア。広い窓の両側に、外国から輸入してきたらしき満開の蘭が置かれていた。「時間は無駄にしたくない。早速見てみよう。見る価値があるかどうか」
ダリオ・ビアンキは、傍らに控えていたスマートな秘書に、ヴィデオテープを渡した。秘書は音もなくテープをデッキに滑り込ませた。飲み物が運ばれてくる。
ダリオ・ビアンキは、ヴェルヴェット貼りのソファに、わたしとリョーハを座らせた。テーブルからリモート・コントローラーを取り上げる。葉巻をくわえ、火をつけながら、壁に電波を飛ばした。巨大なプロジェクターが、天井から下りてきた。
リョーハの映画の上映会が始まる。それは、部屋に比べ、あまりに貧弱だった。『ルヴォーカ』のライヴ映像だ。ユーリアが写り、不安げに震え、画面から消えた。
ダリオは葉巻を吸い続けていた。
「映っているものは退屈だ」とダリオは言った。「だが、構図が面白い……カットの繋ぎ方がいい。全体として、君には才能があると言って良さそうだ」
リョーハの顔が輝いた。リョーハの生涯で、こんなふうに誰かに認められたのは初めてなのかもしれない。ダリオ・ビアンキはリョーハに右手を差し伸べた。「ダリオと呼んでくれ。わたしは君のパートナーになろう」
二人は握手した。ダリオは葉巻を噛んだまま首を揺すり、すぐにリョーハの手を離す。
「そうだ、今すぐ一本撮ろう。俳優を呼び集めよう」ダリオは携帯電話を取り出した。
わたしは驚いて、リョーハに通訳した。「脚本も機材も何もない」リョーハが言った。
「機材はすべて揃っているよ。脚本もいらない。スタジオに案内しよう。この家にはスタジオがあるんだよ」
わたしたちはダリオについて、螺旋階段を昇った。防音された、窓のない部屋に入る。さして広くはない。黒と白の、チェス盤のような床だ。ドアのすぐ脇に大理石の円柱があって、その上に彫刻が載っている。ギリシャ風の衣装を着けた女神の半身だった。
壁には漆黒の緞帳が張り巡らされている。真ん中に置かれているのは、整えられていない、大きなベッドだ。部屋の隅には、堆い古い機材。これらの使い方を、やがてリョーハはすぐにマスターする。
間もなくやってきたのは、痩せた赤毛の娼婦と、二人の兵隊だった。兵隊はロシア軍の制服を着ている。本物の兵隊なのか、よくわからない。「彼らは何をやるか心得ている。リョーハ、君は撮ればいい」
リョーハは、ソニーのヴィデオカメラを探し出した。「ヴィデオテープはないですか」
わたしはダリオに英語でそう伝えた。ダリオはインターホンを繋ぎ、指示を伝えた。先ほどアルファ・ロメオを磨いていた運転手が、ヴィデオテープの箱を抱えて入って来た。運転手は、ロシア人のようだ。「彼を助手に使ってくれ」
運転手とリョーハは、照明の位置を決める相談をした。兵隊たちの顔は幼く、頬は赤い。まだ十代なのかもしれない。二人はクスクス笑いながら、目のところが開いたマスクをした。お互いに、マスクがきちんとはまっているか、調べ合っている。双子の兄弟のよう。娼婦は、物憂げにベッドに腰掛け、ストッキングを穿いた足を組みかえた。
「さあ、撮るんだ」ダリオが手を打ち鳴らした。
兵隊たちが娼婦の服を脱がせ始めた。リョーハは、制御しづらいカワサキの大型オートバイを押さえ込むように、カメラを走らせた。歯を食いしばり、記録を始める。男たちは、娼婦の脚を開かせ、電動のバイブレーターを押しつけた。ダリオは、いいぞ、いいぞ、と呟いていた。アナスターシャは、この場から逃れたかった。撮影には、二時間掛かった。
その後、リョーハとアナスターシャ、俳優たち全員に、食事が振る舞われた。イタリア人の料理人が、挨拶した。大変なご馳走だった。素晴らしい白ワイン、牡蠣とムール貝の前菜、松の実とバジルの入ったジェノヴァ風のパスタ、子羊肉のロースト。こんな食事は、ロシアに来てから初めてだった。わたしたちは疲れ切っていた。ダリオだけが精力的に喋り、食べ続けた。
「新しい映画を見てみよう」ダリオはいくつもあるリモコンの中から、難なく一つを取り、壁に向けてスウィッチを押した。プロジェクターに、撮影したばかりの光景が再現される。
「何事にも資金というのが必要で」
ダリオが言った。「私は仕方なく、友人のアーティストたちに、こういったポルノグラフィを撮ってもらっている」
プロジェクターの中の女が悶えた。白い肉体の真ん中の裂け目を電動の機械がえぐり、肉体は渦巻くようにひきつり続けていた。リョーハはあれを撮影しながら興奮していたのだろうか?
リョーハは生真面目な表情で、スパゲティをフォークに巻きつけようとしていた。プロジェクターを見上げ、言う。「あのままじゃダメだ。編集しなくては」
女優の彼女(名前はオリガ)は、ロシア語で冗談を言い、酒を飲んでいる。ダリオは話し続ける。「だけど私は、これで終わるつもりはない。私が見込んだアーティストたちに正当な作品を作れるだけの資金を与え、正当な評価を受けさせる。私は、芸術を擁護する……」
オリガが笑った。二人の兵隊は、軍服のまま、何事かこっそり耳元で囁き合っている。二人はゲイのように見える。
食堂ホールの、大きな扉が開いた。肥ったイタリア女性が、微笑みながら現れた。ダリオがさっと右手を上げた。
「妻のジュリエッタだ」
脱色したプラチナ・ブロンドを肩のあたりで巻き、おしろいをこってり塗り、つけ睫毛は扇のようだ。肩が剥きだしになった白地に花模様のドレス。高いヒールの金色のサンダルで、よろよろとこちらに向かってくる。
ダリオよりいくらか年上のようだ。ジュリエッタは、愛想良くわたしとリョーハの手を握り、スクリーンを見ながら、夫に舌っ足らずなイタリア語で、囁いた。ダリオは満足げに頷き、通訳する。
「妻は、君の作品が素晴らしいと言っているよ。リョーハ」
そしてジュリエッタはアナスターシャを見る。アナスターシャを抱き締める。下手くそな英語で言った。(あなたはとてもきれい。黒いチューリップのよう。女優なのね?)
ジュリエッタの体は、メレンゲのようにふわふわしていた。香水に混じって、酸っぱい体臭がした。
「いいえ、わたしは女優ではありません」
「あなたは女優になるべきだわ」
ジュリエッタがアナスターシャの頬に接吻した。わたしは目をつぶった。何もかも閉め出したかった。
7
リョーハは、ダリオの仕事を請け負った。ダリオは自由にやらせてくれる、と言う。今は、機材の使い方を、ロシア人の運転手兼撮影助手に習っているそうだ。リョーハの表情は明るく、以前より饒舌になっていた。ダリオの家から帰宅すると、ゴシップを喋った。「……ジュリエッタはローマのバレリーナで、ダリオは踊る彼女を一目見て夢中になった。ほんの若い時に結婚し、二人はずっとうまくやっているみたいだ。ダリオはジュリエッタをとても尊重している」
「あの二人は、怖い」
「イタリアのマフィアなんだ。イタリアで映画に出資して失敗して、ロシアに来た。『四月の煙』というアート映画らしい。生命保険を掛けておいて、監督を撃ち殺したそうだよ」
リョーハも失敗したら、射殺されるのだろうか。
「『四月の煙』に出資する時、ダリオはジュリエッタの意見を聞かなかったんだ。だから失敗したんだって、ダリオは言ってる。ダリオは本当は、あんまり作品の良し悪しがわからないのかもしれない。ジュリエッタがいないとダメなんだ。あの二人は完璧な組み合わせだ。もしかしたら、ゲイとレズビアンの偽装結婚なのかもしれない……」
「これからも、ずっとダリオのところでヴィデオを撮るの?」
「当分はそうする。僕は撃ち殺されないと思う。大丈夫だ。まだ下手くそだけど、僕は撮らなければならない。……撮らなければならない気がする。ポルノは単なる練習だよ」
リョーハは、ダリオに貰ったと言って、魚の形をしたボトルのイタリア製ワインを、帆布の肩掛けカバンから出した。学生のようなカバンだ。わたしたちは擦り傷だらけで濁ったプラスティックのコップに、ワインを注いだ。アナスターシャはモノラルのカセットデッキで、お気に入りの音楽テープを掛ける。カセットテープは、路上の市場で買ったイギリスのバンドの海賊盤だ。
ワインを二杯ずつ飲み、煙草を吸うと、リョーハはガシャリとカセットを切った。明日は二人とも仕事だから、もう寝よう。そうして一人で寝室にもぐり込む。
アナスターシャは、街の中心部、旧海軍省のそばの日本料理店でウェイトレスをしていた。店の名前は『ヤマブキ』。二重になった窓には障子がはめこまれ、天井には赤い提灯が吊されていた。中国のついたてと日本人形、アイヌの木彫り彫刻が、雑然と置かれている。掛け軸に書かれた漢字は間違っていたが、わたしはその間違いを指摘する気にはならなかった。
料理は、バルト海で採れる新鮮な魚介類や、微妙に日本とは味付けの違う煮物や丼、テンプラといったものだ。日本酒も数種類。日本人のビジネスマンが常連客だった。客の中には、アナスターシャの滑らかな日本語を聞き、日本人なのか尋ねる者もいた。「違います。わたしの名前はアナスターシャです」そう言えば、酔客は納得した。
一人の客が、店が終わってからアナスターシャに会いたいと言った。三十代半ばくらいの男で、日焼けし、眼鏡の奥の黒い目は輝いていた。スーツではなく、チノパンツにアウトドア用のナイロンジャケットというラフな格好だ。いつも一人で来て、新聞か雑誌を読みながら、丼の定食を食べる。安い日本酒を一合だけ飲んでいることもあったが、その日はお茶だけだった。
客はテーブルで、ほうじ茶を受け取りながら、アナスターシャへの誘いを、あまりに屈託なく申し出た。「日本人の女性と、一杯やりながら、ちょっと話がしたいんですよ。別に下心はありません。まあ、故郷が恋しいんです。君は留学生ですか?」声は柔らかいが、口調は機敏だった。
「違います。わたしはロシア人です」
「でも君は、日本人の顔をし、日本語が喋れますね」男はおどけるように、目を見開いた。
「あなたもロシア人でないのに、ロシア語が喋れるでしょう」
「僕のロシア語の発音は酷いものですよ。君は実に流暢に日本語を操りますね」
「わたしはロシア人です。ロシアは多民族国家で、シベリアには、黄色人種のロシア人がいるのです」
男は微笑みながら、鋭く言った。
「だったら、身分証明書を見せてくれませんか? 十四歳以上のロシア人なら、すべてロシア国内用の身分証明書を持っているはずですよ」
確かに、アナスターシャにもロシアの身分証明書があった。ゲンリフの妻だという証明書だ。「あなたにそんなものを見せる義務はありません」
「もちろんそうだ。だけど実際、君は日本人でしょう? ネイティヴでなければ、そんな見事な日本語は喋れない。それに、君は日本人の匂いがしますね。豊かな国で育った匂いだ。東京近郊……大都市の出身でしょう。君は不幸そうに見える。僕はもうすぐ東京に帰る。君を連れて行くくらいわけはない」男は真剣で誠実。「どんな事情があるのか知らないけど、僕は君を助けてあげられる。日本に帰る手伝いが出来ます」
わたしが黙っていると、男は声を低めた。「日本に、ご家族だっているでしょう?」
考えておいてくれ、と日本人の男は快活に言った。「明日また来ますよ。ああ、僕は溝口と言います」
翌日も男は来た。店が退けると、日本料理店の近所のバーに行った。溝口は、自分が北海道の出身であること、色々な国を廻ったことなどを話した。今の仕事をする前は、青年海外協力隊員として、アフリカのどこかの国に派遣されていたそうだ。
「アフリカで、どんなことをしていたのですか」
「僕の専門はジャーナリズムだったので、その指導という目的で行ったんですけど、学校もないような地域に回されましてね。結局、住人たちを集めて、色々教えました。一桁の足し算や、アルファベットなんかを。僕らの感覚では誰でも知っているのが当然でしょう? でもそこでは違うんですよ。ショックでしたね。生徒の中には大人も大勢いましたよ」
男は熱心にアナスターシャの話を訊きたがった。わたしはシベリアから都会に憧れて出てきたのだと言った。「女優になりたいと思って、アルバイトをしてるんです」
溝口は信じていないようだったが、笑って聞いていた。店を出ると、磊落にアナスターシャに言った。「楽しかったですよ。また飲みに行きましょう。今度は本当のことを話してくださいね」
「リョーハ!」
わたしはリョーハを呼んだ。バーの横の路地から、ずっと待機していたリョーハが飛び出して来た。呆然としている男の背を抱くようにして、路地に連れ込む。路地に入ると、石造りの建物の壁に、男を叩きつけた。不器用に、銃を構えながら、リョーハがロシア語で言った。棒読みの芝居のようだ。「僕の女に手を出そうというなら……それなりの覚悟を」
リョーハは拳銃を振り上げ、銃身で溝口の頭を殴った。男は路上に倒れた。わたしは男の財布を抜き取った。リョーハが、アナスターシャの小さな手を握り、引っ張るようにして駆けだした。わたしたちは運河を越え、人気のない公園で一息ついた。
アナスターシャは男の財布を調べた。「すごい、ルーブル紙幣がいっぱい。アメリカドルもある。百ドル札が何枚も」リョーハの前に紙幣を広げる。「すごいね」リョーハは虚脱したように答えた。クレジットカードと名刺、ある通信社の記者章が入っていた。名刺には、『溝口茂』とあった。男は正直だったわけだ。
アナスターシャは翌日から日本料理店に行くのを止めた。
クレジットカードは、ズタズタに切り裂いて捨てた。
また冬が来た。リョーハはダリオのスタジオに通って、ポルノフィルムを撮り続けた。機材の使い方はすっかり覚え込んだらしかった。アメリカから取り寄せた撮影技術の本を、辞書を引きながら読んでいることもあった。
リョーハのヴィデオは、シベリアのどこかで大量にダビングされ、世界中に売られた。リョーハは数週間に一度、ドル紙幣の束を持ち帰った。
「アナスターシャ、ダリオ・ビアンキは、ニューヨークで画廊をやっている。表の商売はそれなんだ。僕の『本当の作品』を、そこで売り出してくれる。ダリオは、僕を高く評価してる。いつかイタリアに連れていってくれるって。ヴェニスでゴンドラに乗ろう。美術館に行こう。ダリオが成功すれば、僕たちはニューヨークに住める」
リョーハはそれを本気にしているのだろうか? リョーハは、信じられなくても、信じることに決めたのだ。他にそんな夢を見せてくれるルートはない。
「だから、それまで、僕たちは、ダリオの資金稼ぎに協力しなければならないんだ」
リョーハが帰らない夜が増えた。機材を担ぎ、消耗しきって戻ってくると、服のままマットレスに倒れ込んだ。自暴自棄のように、愛している、アナスターシャ、と言った。(僕は決して女優と寝たりしない)
8
アナスターシャの住む街は、再開発地区だった。古いコンクリートの建物が、唐突に消えていった。あちこちに大きな空き地があり、青緑色の高いフェンスに覆われていた。ブルドーザーがキャタピラを軋らせ、ショベルを上下させ、黒々とした地面を掘り起こしていた。わたしたちのいるビルディングも、近いうちに取り壊されるだろう。遠くに、新築の真四角の高層住宅が見える。道路は曲がりくねっていた。
ある日、人気のない住宅街の道ばたで、毛布にくるまって寝ている男を見かけた。気持ちが悪いほど晴れて、空は水彩で描いたように澄んでいた。男は顔まで毛布で覆っており、太い金髪の先が辛うじて見えた。毛布にくるまれた体は痩せ細っていた。男は激しく痙攣し続けていた。声は一言も発しなかった。
わたしは男を踏まないように避けて歩いた。
新聞が、わたしがかつて勤めていた日本の都市銀行の倒産を報道していた。
アナスターシャは、ポリエステル樹脂加工工場で働いている。工場は、かつては国有だった。今はアメリカの女優をモデルにしたマネキンを作っていた。
濁った色のドロドロの樹脂に、補強用のガラス繊維を貼り込むのが、わたしの仕事だった。アナスターシャは髪を束ね、防塵マスクをつけ、マネキンの型の前に膝をつき、作業した。型に繊維を密着させると、すんなりした胴体の形の空洞が出来る。
ガラス繊維は脆く、細い棘のようで、空気中に飛び散った。大きな窓から午後の陽が差すと、ガラスの埃が光った。ガラス繊維は、わたしの服や髪や皮膚に付着した。防塵マスクは息苦しい。型の中で、ポリエステル樹脂がゆっくり硬化すると、汚れた陰部の臭いがした。硬化の際に出る熱で、工場の中は熱かった。
凹凸の反転した女の体が固まっていく。広い工場のあちらこちらに、手や脚が、バラバラに転がっていた。隅のほうで、塗装をする熟練工が、エアブラシで、女優の顔を描いていた。かつらを被せていない、つるりとした頭のマネキンは、放射線治療中の、治る見込みのない癌患者のようだった。
無言で働く。工場のラジオが、陽気なおしゃべりとヒット曲を流した。それでわたしたちは時間を知った。
アナスターシャが家に帰って料理を作ると、スープの中に、ガラス繊維の糸が落ちた。白髪より、もっと透明で鋭く、不吉だった。鍋には、目に見えない細かい粒子も忍び込んでいるだろう。リョーハとアナスターシャは、それを食べ続けた。
アナスターシャもリョーハも、しばしば咳き込んだ。リョーハの咳は、煙草のせいかもしれない。アナスターシャの薄い下腹は、不意に痛み出しては止んだ。妊娠ではない。リョーハとはもう一年近くセックスしていない。便器に血が混じった。アナスターシャは病気なのかもしれない。病気になっても不思議はない。アナスターシャはもう三十一歳だった。
9
夏の初めに、ダリオのパーティがあった。自宅を開放し、何十人もの客が招待された。混乱と惑乱。リョーハの成功記念だった。
アナスターシャのドレスは、この日のためにジュリエッタがわざわざ贈ってくれたものだ。細身の黒いドレスは、パリコレクションに出品している日本人デザイナーの作品だ。
白夜で、バルコニーから見える、ネヴァ川の上の空はまだほんのり明るかった。溶けかけのドロップのような、薄く尖った月が光っていた。
リョーハを呼ぶ声があちこちから聞こえた。『リョーハが本格的な映画を撮ったら、僕の雑誌で盛大に取り上げよう……』『あの監督はもう時代遅れよ』『商業主義がロシアの映画を駄目に……』男優の兵隊二人組が、笑いながらリョーハにシャンパンを掛けた。
ジャズバンドが演奏していた。ダリオのお気に入りのバンドで、ダリオは彼らを有名にしようと試行錯誤していた。リョーハは彼らのプロモーションヴィデオを撮ったことがある。ダリオがもっとも評価しているアーティストは、そのジャズバンド『サンクト・ペテルブルグ・カルテット』と、映像作家のアレクセイ・ペトローヴィチ・レーダグロフ、すなわちリョーハだった。
パーティ会場にヴァシリエフが現れた。ダリオは彼の元に駆け寄り、ロシア式の抱擁をした。ヴァシリエフが言う。
「友よ。景気はどうだね。アーティストたちは目が出そうかい」
ジャズバンドの演奏は延々と続く。アルトサックスが、うねり、悶え、ドラムのリズムは、部屋中の空気に奇妙な波動を送っていた。部屋全体が、音楽に合わせて呼吸しているようだ。
「君は、見たことがあるな」ヴァシリエフがリョーハに目を留めた。小男のダリオが、リョーハの高い背に、辛うじて腕を回す。「私の一番の秘蔵っ子ですよ。映像作家です。稼ぎ頭でもありますね」
ヴァシリエフは、リョーハを無視して、ダリオにうなずく。
「女優が欲しければ、いくらでも紹介するよ。私の人肉市場は、入荷超過だ。最近、十三歳の子が二人入った。ミンスクの田舎娘でね。まだクリーンだ。一度、私のクラブに来てくれ」
「ジュリエッタに見に行かせましょう。ご存じの通り、私は家内の選択眼に絶対の信頼を寄せておりましてね」
「イタリアの幸運の女神か。迷信深いな」
「はっきりしない才能を探し出すには、幸運を必要とするんですよ」
ヴァシリエフは、リョーハをしげしげと眺める。「私は人の顔を覚えるのが得意なんだ。君は、いつか仕事を頼んだチンピラだな」
「今はチンピラじゃない。アーティストです」リョーハは陰鬱に答えた。
「そうか。それはおめでとう。全世界の男がおっ勃つようなものを作ってくれ。ロシア国内での販売ルートは、私が握っているんだよ」
「僕はポルノ作家じゃありません」
ヴァシリエフは聞いていなかった。優雅に現れたジュリエッタの手を握る。ヴァシリエフは、リョーハに、バーからマティーニを三つ持ってくるように命じた。リョーハは黙って従った。
音楽、男優と男優兼アーティストたち。アーティスト兼マフィア。女優たちが笑いさざめいている。シャンペン、カナッペ。キャビア。蘭とシャンデリア。女優のオリガが、わたしの背を叩いて通り過ぎた。「パスタが信じられないくらいおいしいわよ!」
やがて、ジュリエッタが近づいてきた。アナスターシャに囁く。こちらにいらして。可愛い黒いチューリップのような子。
ジュリエッタに案内され、小さな別室に行く。そこでは、ダリオとリョーハが、立ったまま話していた。ダリオの声がする。「刺激的なものが欲しい。刺激的であればあるほどいいんだ」ジュリエッタが扉を閉めた。ダリオは、話を止め、アナスターシャたちを振り返り、笑いながら、ご婦人たちの登場だね、と言った。
「ジュリエッタとアナスターシャは、まさに女性の美の両極端を示している。ジュリエッタは豊饒で、母性的だ。アナスターシャは、清楚な黒いドレスが似合う少女だ。二人が並んでいると、美しさとはなんと多種多様なものだと改めて思わないか? リョーハ」
リョーハは返事をしなかった。
ダリオがアナスターシャの手を取った。小さな口ひげをきれいに整え、スーツの胸には蘭の花を挿している。柔らかい英語で、魔術師の口調で言う。「アナスターシャ、君はイタリアの男たちに愛されるだろう。東洋の美女は、イタリアの、世界中の、寂しい、ヴィデオデッキを持った男たちすべての恋人になるんだよ」
ダリオは、来年には、ロシアの拠点を引き上げ、ニューヨークで活動を始めると宣言した。
「君たち二人分の偽造パスポートを用意してあげよう。国籍はアメリカだ。アメリカ行きの航空券もあげよう。ニューヨークでも、ロサンジェルスでも、好きなところに住める」
ダリオの後ろには、いつの間にか、妻のジュリエッタが控えていた。ジュリエッタは、趣味の悪い、肩の開いた、がちょうみたいな白いドレス姿だ。
ジュリエッタが口を開く。口紅がギラギラ光った。
「アナスターシャ」ジュリエッタは神話の女神のようだ。「あなたは女優になりなさい」
ダリオは妻のぽっちゃりした手を愛おしげに取った。「ジュリエッタの目は確かだ。ジュリエッタは真の美を見抜く力がある。私の予言者だよ」
「そうよ。わたしは予言者なのよ」
リョーハはぼんやりしている。いや、苦しそうにしている。
ダリオが、胸の蘭を差し出し、わたしの手の甲に接吻する。早口で耳元に告げる。「稼げるうちに稼いでおくことだ」
パーティ会場に戻ると、サンクト・ペテルブルグ・カルテットは演奏を止めていた。代わりに、トランシーなテクノが掛かっていた。ダリオの『アーティストたち』の一員であるDJが、ヘッドフォンを耳に当て、即席のブースで一人で踊っていた。
ペルシアじゅうたんの床に、客たちが座り込んでいた。床にはひっくり返された花瓶や注射器やドレスの羽根飾りや割れたシャンパングラスが散らばっていた。誰も話をしない。ヴァシリエフは消えていた。ジャズバンドのドラマーが、ろうそくでスプーンをあぶり、ストローで鼻からコカインを吸う。撮影助手兼運転手が、照明を赤から青に切り替えた。
帰ろうとリョーハが言った。
わたしとリョーハは、タクシーで郊外の集合住宅に帰った。わたしたちはタクシーに乗れるくらい金持ちになっていた。集合住宅の少し手前で車を降りた。集合住宅のまわりは、違法駐車のボロ車でいっぱいで、タクシーは近づけないのだ。道は月まで続いているように思えた。虫が鳴いていた。リョーハとアナスターシャは、手を繋いで歩いた。
リョーハは非現実的に、アナスターシャへの愛を語った。苦しそうだ。
アナスターシャは思う。ラーゲリ(強制収容所)に入れられ、歴史の中に姿を消したリョーハのお父さんと、苦労の中で倒れたお母さんが、今ここに現れてくれればいいのに。リョーハを抱きしめて、可哀相な私たちの子供、と言ってくれるべきだ。
「わたしが女優をやったら、ダリオはたくさん払ってくれるよね? まだ、今なら」
リョーハは激しく首を振った。「あんたにそんなことはさせられない」
「断ったら、ダリオに切られるわ」
「何か他の方法で作品を売るよ」
そんなことがリョーハにできるわけがなかった。それはリョーハにもわかっているはずだった。
「ニューヨークに行きたいんでしょう?」
「あんたは行きたいのか? 僕がニューヨーク行きの話をすると、あんたはいつでも、哀れむように薄く笑うだけだったじゃないか」
わたしはサンクト・ペテルブルグから出たくなかった。どこかに行くなら、北がいい。北極圏の村で、オーロラの下、リョーハと暖かい小屋に住み、トナカイを飼って暮らす。……馬鹿馬鹿しい。わたしの終着点はサンクト・ペテルブルグだ。ニューヨークなど存在しない。
リョーハはアナスターシャをじっと見つめている。押し殺した声で訊く。
「アナスターシャ、君が日本からロシアに来たのは何故なんだ」
リョーハは矢継ぎ早に質問する。君は何を考えてるんだ? 何が欲しいんだ?
わたしには答えられない。アナスターシャの生活は退屈と同義だった。退屈以外のものは受け入れられない。リョーハはアナスターシャのきゃしゃな肩を乱暴に掴む。わたしの脚は震えている。下腹がまた、キリキリ痛みだした。
「答えろよ。アナスターシャ。いや、本名はなんて言うんだ?」
「……そんなこと、あなたが訊いてどうするの」
アナスターシャの声は、恐ろしく冷静だった。リョーハの灰色の瞳は、急に力を失った。見知らぬ人を見る目だった。集合住宅の階段の途中で、苛立たしげにアナスターシャに接吻する。最後の接吻だ。
10
翌週。七月二十三日の夜。ダリオの家のスタジオ。
わたしは、スタジオの脇の浴室で、念入りに化粧をした。グレーのアイライナーを目の下に入れ、繊維の入ったマスカラで、人形のような睫毛を作った。唇は真っ赤に塗った。ベビーピンクと黒の下着を、わたしは身につけた。
「刺激的なものが欲しい」とダリオは言った。刺激的であればあるほどいい。刺激だけが必要なのだ。リョーハが、わたしのヴィデオを、うまくダリオに売りつけ、外国に出ていけるだけの金を稼げればいいのだが。偽造パスポートをくれるという約束を、ダリオは守るだろうか。
わたしはスタジオに入り、ベッドに腰掛ける。彫刻を飾った円柱が見えた。大理石の女神像は、ジュリエッタをモデルに作られていることに気づいた。ジュリエッタを若く、美しく、細身にしたものだった。ローマのバレリーナだった時の姿だろうか。
リョーハは、寒い国の人間の陰鬱な顔つきで、ヴィデオカメラを操作した。とても頑迷に見える。無言のまま、アナスターシャの手を引き、立ち位置を決めさせた。アナスターシャは従順にリョーハに従った。ベッドのシーツは剥ぎ取られていた。
ひどく寒々しい。
わたしはギロチンにかかる。わたしは解剖される。
アナスターシャのポリエステル樹脂の外殻は砕け散る。中からは一筋の、黒い霧が立ち昇るだけだろう。
もしかしたら、わたしのヴィデオをゲンリフが手にする日が来るかもしれない。それとも天王寺の男が。そしてそれは、封印されるか捨てられる。
銀色の幕の前にわたしは立つ。リョーハがおずおずと微笑み、小さな声で(すごくきれいだ)と呟く。その後すぐに真剣な表情になった。白い照明がつけられる。わたしは目が眩み、何も見えなくなる。ダリオの葉巻の煙だけ。すぐ側に、男優/兵隊たちが待機している。
「カメラ、スタート」
リョーハが鋭く言った。アナスターシャは、スリップドレスをめくり、拳銃を取り出し、額を撃ち抜いた。
リョーハはカメラを回し続けた。
2002-03-29
copyright: 間瀬純子junko mase
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