短編小説サイト 死んだ恋人を捜して
1
アナスターシャと呼ばれているが、昔は違った。わたしは日本人だ。だけどアナスターシャとしてサンクト・ペテルブルグで死ぬ。
アレクセイ・ペトローヴィチ・レーダグロフの愛称はリョーハ。リョーハは可哀相。五歳の時、酔っぱらった父親は共産党を批判し、ラーゲリ(強制収容所)に送られた。母親は衣料品の工場で働いていたが、リョーハが徴兵されている間に、脳梗塞で死んだ。
リョーハは、ソヴィエトがなくなって、資本主義体制でうまくやっていない。
革のライダースジャケットを着、服はすべて黒、強い煙草を吸う。長身で、首は長く優雅だった。肌は粒子の粗いモノクロ写真のグレイ。灰色の目は悲しそうに澄んでいて、話す相手をじっと見つめる。リョーハは、フィルムを買う金のない映像作家だ。
ライヴハウスでバンドの写真やヴィデオを撮り、バンドから少しばかりの金を取る。わたしたちは、膨大な時間を、退屈なライヴを見て過ごした。アナスターシャはすぐに固まってしまうマスカラを下睫毛にたっぷり塗り、長い髪に黒ウサギの帽子を被って出かけた。口紅だけが真っ赤。きゃしゃなブーツの紐は、複雑に絡み合い、一足ごとにその緊縛はいっそう強くなり、アナスターシャの細い足首を堅く締めつける。歩くと、ギシギシと音がした。
黒ウサギの帽子は、ゲンリフに買ってもらったものだ。ゲンリフは、アナスターシャの昔の夫だ。ゲンリフと結婚して、わたしはロシアに渡った。ゲンリフとは、大阪に本社のある『ロシア結婚紹介所』で出会った。その紹介所は、過疎に悩む日本の農村の男たちが、金髪のロシア美女を、労働と繁殖の道具として安く買うためのものだったが、逆に利用した日本の女がわたしで(何のために?)、たまたま登録したロシアの男がゲンリフだった。
ゲンリフは言語学者だった。シベリアの科学都市アカデムゴロドクで、自分の仕事を進めていた。アナスターシャはゲンリフに研究の内容を訊かなかったし、ゲンリフも説明しなかった。
ゲンリフは、アナスターシャより十も年上だ。勤勉で寡黙で、いつも本か新聞を読んでいた。アナスターシャは四年間、アカデムゴロドクでゲンリフと平和に暮らした。シーツにアイロンを掛け、高い野菜を買い、ボルシチを作った。毎日の生活は深い霧に閉ざされているようだった。時間の感覚がなくなった。ゲンリフは週に一度、アナスターシャのベッドを訪れた。それでわたしは、曜日を思い出すのだった。
アナスターシャは、義務を果たし続けた。ゲンリフは優しかった。週に一度、ロシア語講座に通わせてくれた。時折、オペラやバレエを見に行った。わたしもゲンリフも舞台にはうんざりしていたが、きらびやかな国立劇場に出かけるのは楽しかった。ゲンリフはわたしに洋服を買い与え、着飾らせた。アナスターシャは、黒いまっすぐな髪を腰まで伸ばし、半透明の長いスカートを何枚も重ねて履いた。アナスターシャは目立った。レーニン広場の、滑稽なほど巨大な人物彫刻の前で、アナスターシャが翻すスカートは、不吉な星の軌跡を描く。ツイードの背広を着たゲンリフが、影のように、アナスターシャの手を引いた。
リョーハは、アナスターシャが通っていたロシア語学校の清掃員だった。
雪の舞う夜にリョーハと逃げて、シベリア鉄道でサンクト・ペテルブルグに来た。とてもロマンティック。列車の個室の中で、リョーハは落ち着かなげに、アナスターシャの顔を何度ものぞき込んだ。雪がぶつかる車窓の向こうで、シベリアの黒々とした針葉樹が、何万本も背後に飛び去っていった。
わたしは、いつからアナスターシャになったのだろう。
「アナスターシャ」リョーハもゲンリフもそう呼んだ。「アナーニャ」と呼ばれることもある。
2
日本人だったころ、わたしは東京に住む会社員だった。毎日、パソコンにプログラムを打ち込んでいた。金融システムを構築する、何か下っ端の仕事。オフィスの窓からは、皇居の、こんもりした森が見えた。ふと気づくと、わたしはいつもオフィスのわたしの席に座り、明るい空と皇居の森を眺めているのだった。
勤め始めて三年目の冬の週末に、大阪の天王寺(てんのうじ)に住む男に会いに行った。
出発したのは、仕事が終わった金曜の夜だ。東京から四百五十キロに渡って横たわる暗い高速道路を、オートバイで這うように走り抜けた。工業地帯の明かりが、夜空を紫に染めていた。サーヴィスエリアごとにカフェに入り、震える手でコーヒーを飲んだ。電飾をつけた大型トラックがたくさん停まっていて、目が眩みそうだった。ナンバープレートは、行ったこともない土地のものばかりだった。わたしは疲れ切っていたが、わくわくしていた。
夜明けに大阪に着いた。豊中インターチェンジで高速を降りると、コンヴィニエンス・ストアで大阪の地図を買った。「十三」(じゅうそう)「戎」(えびす)「御堂筋」(みどうすじ)といった地名は、わたしの知らない過去の日本に繋がっていて、薄気味悪く、土俗的に思えた。土地勘のないわたしは、天王寺に辿り着くのに相当迷った。
天王寺の男のアパートは、薄緑のモルタルを塗った木造の建物だった。古くも新しくもない。天王寺の男は、休日で家にいた。眠っていたらしい。天王寺の男とは、学生の時、東京で知り合った。一ヶ月が二ヶ月に一度、会って寝た。彼は、就職とともに大阪に行った。出身地は日本海側のどこかだった。
天王寺の男は、若く、うぶで、卑怯で、無教養で、不誠実で、ハンサムだ。わたしは天王寺の男のきれいな横顔に惹きつけられていた。滑らかな横腹の筋肉を抱きしめたかった。
「……さん?」
天王寺の男はアナスターシャの本来の名前を呼んだ。
「シャワー浴びたら?」
アナスターシャは天王寺の男のユニットバスでシャワーを浴びた。天王寺の男に比べ、自分が醜いと感じた。蜂蜜の香りがするボディソープを体中になすりつけた。わたしたちはもう一度、布団にもぐり込み、眠った。遮光カーテンの隙間から光が漏れていた。部屋にはほとんどものがなく、清潔だった。ベージュのじゅうたんを敷き詰めたフロアに、柔らかな羽布団とテレビだけがあった。
夜になってから、新世界と呼ばれる繁華街に出て、焼肉を食べた。わたしたちには喋ることがあまりなかった。天王寺の男とわたしの間には、共通のものは何もなかった。街に出ると、銀色の通天閣が見えた。歩いているのは、汚れた作業着を着た、痩せた中年の男たちだった。
商店街と高速道路の向こうに、天王寺動物園があった。うらびれた動物園のまわりには、青いシートがたくさん張ってあって、そこに住んでいる人たちがいる。『皆さん、助けてください。お願いします。お願いします』と書いたボール紙を置き、老人がうずくまっていた。傍らの小箱には、十円玉と一円玉が数枚ずつ入っていた。天王寺の男は、老人を見なかった。
わたしたちは目的もなく歩き、新世界に戻る。商店街には、音楽が流れていただろうか? 覚えていない。安い飲み屋とパチンコ屋が道の果てまで並んでいた。ペンキ絵の看板は芝居小屋のもので、女物の着物を着、日本髪のかつらを被り、白塗りに紅を引いた中年の男が見栄を切っていた。『人情花籠道中記』がタイトルらしかった。
雑居ビルの一隅に『ロシア結婚紹介所』という看板が出ていた。わたしはそれについて冗談を言った。天王寺の男は何の興味もなさそうにうなずいた。
「……どうして天王寺に住むことにしたの?」
わたしは天王寺の男に訊いた。
「不動産屋に行ったら、このへんが安かった」
天王寺の治安は悪そうだった。天王寺の男はそんなことは気にしないようだ。
道ばたの男が、ずっと叫んでいた。わたしは少し怖かった。天王寺の男の腕に掴まると、すっと引き剥がされた。天王寺の男は、布団の中で以外、わたしに触れられるのを嫌がった。どの女に対してもそうなのか、アナスターシャにはわからない。
その晩は、天王寺の男のところに泊まった。キスは淡い果物の香りがした。日本酒のせいだろう。天王寺の男は、わたしの長い髪がきれいだと言って、しばらく撫でていたが、やがて飽きたらしい。その後、ずっとテレビを見ていた。関西ローカルのにぎやかなバラエティ番組を、笑いもせずに凝視している。
そうすればアナスターシャを見なくても済むからだろうか。テレビを消して欲しかったが、わたしは天王寺の男にそれを言い出せなかった。何を言っても、この関係は破壊される。言わなくても破壊される。もし、天王寺の男が、アナスターシャにそうしろと言えば、アナスターシャは、勤めている会社に大阪への転勤願いを出しただろうが、そんなことを天王寺の男が言うはずはなかった。
布団は暖かかった。アナスターシャは、天王寺の男の冷たい肌に触れながら、終わりが見えていたので、それを耐えきれるものにするための理屈を考えようとした。例えば、この瞬間は永遠なのだとか。素晴らしいので、どこかに冷凍して保存されるべき瞬間だ。
だけど、瞬間の冷凍保存庫などない。
日曜日の朝が来て、アナスターシャは帰る準備をした。オートバイのエンジンを掛けていると、ジーンズのポケットに両手を突っ込みながら、天王寺の男は、「気をつけてね」と言った。見知らぬ人が見知らぬ人に掛ける親切な言葉のようだった。オートバイを発進させる。バックミラーをのぞき込むと、もう天王寺の男の姿はなかった。
翌日の月曜日、わたしは会社に行くのを止めた。そして電話番号案内に電話して、大阪の天王寺にある、『ロシア結婚紹介所』の番号を訊いた。
3
ゲンリフは、アカデムゴロドクの言語学者だった。
アカデムゴロドクは、シベリア中部の都市ノヴォシビルスクから三十キロほど離れた、科学研究都市だ。
ゲンリフの父親は、ソヴィエト共産党のエリートだった。ゲンリフは大学に残り、学問の道を選んだ。共産党がなくなっても、ゲンリフにはもはや関係がなかった。
ゲンリフの本は六カ国語に翻訳されている。ルーブルがいくら安くなっても、それもゲンリフには関係なかった。わたしたちは、研究者用高層住宅ではなく、小ぎれいな一軒家に住んだ。白樺の林に囲まれていて、時々トナカイやキツネが現れた。
アナスターシャは、黒ウサギの帽子を被り、オーヴァーにくるまり、林の中の道を歩いたものだ。林の向こうには、水色の空を四角く切り抜き、巨大な研究棟がいくつも建っていた。かなりの学者が海外に流出していた。だがまだそこでは、アナスターシャには決して理解できず、一生関係ない、様々な研究が成されていた。
わたしは、澄んだ大気の中、きゃしゃなブーツを軋ませ、唇を噛む。そうして、食料の買い物に行き、大学のロシア語講座に通った。アナスターシャは覚えが早い。初め、ゲンリフとは、英語と日本語で喋っていたのだが、段々と、ロシア語の割合が増えていった。必要最小限の会話の合間に、短い優しい言葉を掛け合った。
ゲンリフは、四方を本で囲まれた書斎で、飼い猫を膝に乗せ、セーターに猫の毛をくっつけたまま、いつまでも仕事をしていた。アナスターシャは午後九時にジャム入りのロシア紅茶を淹れて運ぶ。ゲンリフの、ひげの剃り跡のざらざらする頬に軽く唇を当てる。ゲンリフは紅茶に口をつけ、美味しい、ありがとう、と言う。「おやすみ」「おやすみなさい」そしてアナスターシャは書斎を出るのだ。
ゲンリフは海外のシンポジウムに呼ばれることもある。ゲンリフはパリとブリュッセルに一人で出かけ、アナスターシャはアカデムゴロドクの、わたしだけの部屋で怠惰な一週間を過ごした。夜一人で寝ることを好むゲンリフは、結婚の際、アナスターシャのために、可愛らしい部屋を用意した。高い天井。壁紙は、くすんだピンクと白で、バラの模様が描かれていた。ベッドのカヴァーは、繊細な手織りのレースで、触ると溶けてしまいそうだった。不思議の国のアリスの寝室のようだ。クローゼットの中には、素敵な衣装がたくさん。黒ウサギの帽子、足に巻きつけるストラップのついた、バレリーナのようなミュール、絹とサテンのスリップドレス。東京の会社員のわたしが持っていたのは、味気ないスーツとジーンズだけだったのだが。
ベッドサイドのテーブルには、象嵌の小さな宝石箱があって、ゲンリフのお母さんがくれたルビーの首飾りや、真珠の結婚指輪が入っていた。二階建ての家中を、ヒーターが暖めていた。アナスターシャは、ライ麦パンに黒海のキャビアを塗ってつまみ、お菓子を囓り、ワインを飲み、ロシア語のロマンス小説を読み、ほとんどの時間は眠り込んでいた。
ゲンリフから、何度か国際電話が来た。
「アナーニャ、君も来れば良かったのに」
わたしには、ホテルの部屋で、ワイシャツのボタンを外し、口ひげをいじっているゲンリフが想像できる。ルームサーヴィスで頼んだ紅茶を、真面目な顔ですすっているだろう。時折、鈍重な指で、ずり落ちそうな眼鏡の蔓を持ち上げる。
「確かに僕は毎日会議と講演ばかりで、君は一人で退屈かもしれないけどね。パリの観光ガイドを手配してあげられたんだよ。ベルサイユ宮殿や、エッフェル塔や、サンジェルマン・デ・プレに行ってみたくなかったのかい?」
アナスターシャは、別にパリ観光などしたくなかった。出発前の断りの言葉を、穏やかに繰り返した。「わたしはアカデムゴロドクが好き。外に行きたくないの」
「スイス人の日本語研究者もいるんだ。パーティで君を紹介したかった」
言語学者たちと何を喋れと言うのだろう。
「何か、みやげに欲しいものはあるかい? サーシャは元気かい?」
サーシャはゲンリフの猫だ。白いチンチラの肥ったオスで、今はアナスターシャのベッドで眠っている。目は水色。「元気よ。寝てる」
ゲンリフは、わたしが眠っている間に帰ってきた。頬に接吻された。ゲンリフは、上機嫌だった。ぐんにゃりしたアナスターシャを何度も抱きしめ、パリにも君ほどきれいな女はいないと言った。「今度、私の本が、イタリア語で出ることになったよ。ローマには一緒に行こう」サーシャがゲンリフにすり寄っていった。ゲンリフは、ドゴール空港の免税ショップで、フランスの香水を買ってきてくれていた。ルーブルに直すといくらになるのだろう。
わたしは浴槽にお湯を張る。金色の蛇口から、透明なお湯があふれ出て、陶製の浴槽の中で複雑な渦を巻く。アナスターシャは、ふと思いついて、ゲンリフのみやげの香水を一瓶、すべて浴槽に注ぎ込んだ。香水は、油膜のようにのっぺりと湯面を漂い、アンティークガラスの照明に照らされ、金色の蒸気となって、浴室中に立ち昇った。浴室中がもやに霞み、浴槽もタイルの壁も、おぼろにしか見えなくなった。バラとサンダルウッド、パチウリ。甘くて異国的な、強い香りが、練り込んだようにアナスターシャの肌に染みついた。風呂から出ても、アナスターシャに移った香りは抜けず、アナスターシャのまわりを、雨のように包んでいた。そして何日も何日もアナスターシャを取り囲み、ゆらめいた。
香水の赤い小瓶は、きれいだから、ベッドサイドの飾りに取っておいた。
ロシア語講座に行くと、背の高い清掃員のリョーハがモップを片手に、通りすがりにわたしを振り返った。すごくいい匂いだ、と独り言のように呟いた。
4
リョーハとサンクト・ペテルブルグに来た。ロシアに来て、四年経っていた。
リョーハは外国に行きたがっていたが、パスポートを持っていなかった。アナスターシャのパスポートの名義は指名手配されているかもしれない。アナスターシャとリョーハは、ゲンリフの家からありったけの金を持ち出していた。
「あんたの元旦那さんの言語学者は、僕らがモスクワに行くと考えるよ」
そう、リョーハは主張した。リョーハは、喋るのが得意ではない。一言発するのに、大変な意志と集中を必要としているかのようだった。「……それに、サンクト・ペテルブルグからなら、パスポートさえ手に入れられれば、鉄道で簡単にフィンランドに出ていける」
ホテルの部屋は煉瓦作りで、白く塗られていた。塗装にはムラがあり、ところどころ、刷毛の跡が残り、煉瓦のえんじが透けて見えた。わたしたちは、コンクリートの床に座り込み、甘く真っ白なアイスクリームを食べた。外は零下二十度だった。錆びたオイルヒーターが、カンカンと金属的な音を立てていた。今にも爆発しそうだった。わたしたちはずっと座り込んだまま、黙っていた。
「アナスターシャ、僕は……」リョーハが言った。「僕は金を稼ぐよ。あんたに、ゲンリフの時よりいい暮らしをさせる」
シベリア鉄道に何日も乗ったきりだった。わたしは風呂に入っていない。わたしはいやな臭いがするだろう。先ほど浴室を見たら、お湯は出なかった。
もう午前二時になっていた。二重窓の外、舞い散る雪の向こうに、街灯に照らされ、帝政ロシアの荘厳な建物があった。
サンクト・ペテルブルグから、日本までは、ウラル山脈と数知れない川、そして何千キロもの冷たい森が横たわっている。そこでは、時折鳥が鳴き、分厚い毛皮に包まれた動物たちが互いに血を流し合う以外、音がすることはない。降り積もる雪の重さで、細く尖った高い木が、ゆっくりと倒れていくだろう。
リョーハはわたしの体を持ち上げ、ベッドに横たわらせた。すごく静かに。リョーハは革のジャケットを着たまま、アナスターシャの唇に、薄い、濡れた石膏のような唇をそっと触れさせた。「アナスターシャ、僕は一生……」リョーハが言った。リョーハは泣き出しそうだった。アナスターシャは、両腕を持ち上げ、リョーハの背を包んだ。
サンクト・ペテルブルグはアパート不足だった。二人は郊外の、旧ソヴィエト時代に建てられた集合住宅に住んだ。二十階建ての荒れ果てた高層ビルが、狭苦しく詰まっていた。アナスターシャとリョーハは、十二階に住んだ。アパートの廊下で、隣の部屋の老婦人が、最低生活費にも足りない年金で、パンを買って帰ってくるのに、しばしば出会った。アナスターシャもリョーハも、彼女の顔を覚えたが、挨拶をすることはなかった。
リョーハはゲンリフから奪った金で、韓国製のテレビとヴィデオを買った。いくつかの仕事を馘になった後は、一日中、テレビを見続けていた。アナスターシャは日本料理店でウェイトレスを始めた。仕事から帰ってくると、リョーハは、床に座り込み、長い棒のような足を組み、テレビを見つめているのだ。
SFドラマやオカルト番組が、リョーハのお気に入りだった。顎ひげを生やし奇矯な衣装を着た霊媒師が、モスクワの、幽霊が出る屋敷を紹介していた。二十世紀初頭に、そこで家族三人が、息子によって惨殺されたという。息子は自殺したそうだ。引き伸ばした室内の写真が映し出される。居間の暖炉の脇に、ぼんやり映った白い影を、霊媒師は棒で指して言った。『これは、娘の……つまり殺人者の妹のカテリーナ・ドミートリーエヴナの魂です。あどけない可愛らしい顔が見えるでしょう。長い髪を、リボンで結んでいます』霊媒師は、白い紐状の部分を棒でそっとつついた。『これがリボンです。恐ろしいことです。カテリーナは……、カーチャと呼びましょう。カーチャはまだ十一歳だったのです。死後、九十年経った今でも、カーチャは屋敷をさまよっているのですよ』
わたしはキッチンの食品棚を開けた。泥つきのじゃがいもがいくつか転がっているだけだった。戸棚の中は冷えて乾いていた。パンもミルクもない。リョーハが声を掛けてきた。
「アナスターシャ、見た?」
「見たって何を?」
「今の『霊』さ。本当に女の子の形だったよ」
わたしはじゃがいもを剥きながら、テレビをのぞいた。霊媒師と司会者が喋っていた。『では、次の写真です』
「霊なんてこの世にないわ」
「いるよ。写真に写ってたじゃないか」
リョーハはウォッカを瓶のまま飲み、煙草に火をつけた。「僕は親父を写真でしか見てない」リョーハの父親は、ラーゲリ(強制収容所)で行方不明になっている。「いたから写真に写ってるんだ」
リョーハはおぼつかなげに再び仕事を始めた。ガソリンスタンドの店員だったが、遅刻のしすぎでまた馘になった。どうしても朝起きられない、とリョーハは言う。アナスターシャがリョーハを起こして、どうにか出かけさせることができても、リョーハは通勤路のスタローヴァヤ(食堂)でウォッカをひっかけてしまうのだ。
ロシアでは給料の遅配はごく当たり前だったが、ガソリンスタンドは最後の給料をきちんと払ってくれた。リョーハはその金でヴィデオカメラを買った。代金の不足分は、ゲンリフのお母さんのルビーの首飾りを売って作った。「映画を撮りたいんだ」
「どんな映画?」
「わからない」
5
フェンダー社のコピーメーカーのギターが、アンプに近づく。そうすると共鳴したギター音がアンプにフィードバックして耳障りなノイズが出る。それは、ロック音楽が目指す『過激さ』という神話にぴったりの音とされているようだ。ギタリストたちが、その音を出す場面を、アナスターシャとリョーハは、何千回も見た。
ライヴハウスが、リョーハが発見した仕事場だった。店内は黒く塗られ、狭く、うす暗く、バンドのビラが壁いっぱいに貼られ、トイレの鍵は壊れ、鏡は割れていた。ソースのついたマクドナルドの包み紙を、ロック少年の重いブーツが踏む。煙草の吸い殻が、こぼれた酒で床に貼りついていた。斜めの照明が、観客たちの無表情な顔を照らす。演奏の合間の音楽は、アナスターシャが十代のころに聴いた、イギリスのヒット曲だった。確か、ABCの『ルック・オブ・ラヴ』だ。
アナスターシャは、東京にいた学生時代、新宿のライヴハウスに、友人のやっているバンドを見に行ったことを思い出す。ここはそこに似ていた。裏びれた、文化の残り滓。きっとこんなライヴハウスは、サンクト・ペテルブルグと新宿だけでなく、大阪や、台北や、エルサレムにもあるのだろう。
『嘔吐』を意味するパンクバンド『ルヴォート』のギタリストが、リョーハに金を渡した。ギタリストは男だが、濃く口紅を塗っている。破けた豹柄のTシャツを着、逆巻かせた髪からは、整髪料の匂いがした。まだ二十歳そこそこだろう。「ちゃんと撮ってくれよ。俺たちはヴィデオをヴァージンレコードに送るんだから」
ギタリストは、わたしをちらりとうかがう。
「ガールフレンドはアジア人か。ジョンとヨーコみたいだな。イギー・ポップの奥さんも日本人なんだよな。知ってた?」
ライヴが始まった。またフィードバックノイズ。スネアドラムが連打され、単純な構成の曲に入る。このライヴハウスの音響は酷い。ベースはくぐもって、古びたゴムタイヤのようだったし、歌はろくに聞こえない。アナスターシャはコーラで割ったウォッカを飲み、煙草を吸い、舞台を見つめながら、ブーツを履いた足をぶらぶらさせる。ブーツはあまりに窮屈で、木の義足のように思えた。
リョーハは、『ルヴォート』のヴォーカルの女性にヴィデオカメラのレンズを近づけている。ヴォーカリストのユーリアは、ロックの文法に従って顔をしかめる。マニキュアを青く塗り、尖らせた爪の先で、カメラの向こうの架空の聴衆を挑発する。ユーリアは、普段は娼婦だ。四つ星ホテルの入り口にたむろし、客を引く。それとも、ユーリアはサンクト・ペテルブルグ大学のロシア文学科の学生で、サルトィコフ・シェードリン公共図書館に足繁く通ってプーシキンの研究をしていたかもしれない。
リョーハがその日手に入れた金は、五十ルーブルだった。ウォッカを買えば終わりだ。
「金を稼ぐよ。ロシアにはうんざりだ。一緒にニューヨークに行こう。アナスターシャ、僕の映画で僕たちは有名になる」
多分ニューヨークもハリウッドも、そんなことを考えている人間であふれかえっているだろう。
リョーハは毎日ライヴハウスに出かけた。そこは、マフィアが経営していた。経営者はほとんど店に現れなかった。時々、売人がドラッグを供給しに来た。リョーハはドラッグは買わず、彼らに仕事はないか訊いた。
一度、大きな黒いBMWが、店の前に停まったことがある。スーツを着た五十がらみの大柄な男が、ライヴステージには目もくれず、店長に一方的に何か指示していた。ユーリアがわたしに囁いた。「あれはヴァシリエフ。このへんを仕切っているマフィアだよ」
ヴァシリエフが部下を引き連れ、出ていくと、リョーハが追いかけた。アナスターシャはぼんやりウォッカを飲み続けた。
「大きな仕事が入ったんだよ。アナスターシャ。何か素敵なものを買ってあげるよ」
ある日、リョーハが言った。
リョーハは黒いナップザックを床に放り投げた。
「今、人を殺してきたよ」リョーハは蒼白だった。床にしゃがみ込む。わたしはリョーハの冷たい硬質な革の上着に触れた。ジャケットの隙間から拳銃が落ち、コンクリートの床に重い音が響いた。
「本当に?」
リョーハは優しい青年だった。そんなことができるはずがなかった。いや、リョーハは兵役に行っている。「戦争に行ったことはあるの?」
「ない。僕の兵役期間は、チェチェン紛争の後だ。訓練をしただけ」
リョーハは、震えながら煙草を取り出し、口にくわえた。マッチを擦るが、炎は上がらない。アナスターシャはリョーハの手から紙マッチを取り、煙草に火をつけてやった。
「これでヴァシリエフに貸しが出来た、ヴァシリエフは僕を使ってくれる。……あれが、金だよ」
リョーハは、ナップザックを指さした。わたしはザックのジッパーを裂くように広げた。薄汚いルーブル紙幣が束になっていた。リョーハが叫んだ。「アメリカドルでくれると言ったのに! ヴァシリエフ!」
リョーハは、ネフスキー大通りの車道に飛び出し、ヴァシリエフのBMWを停める。BMWの扉を叩き、詐欺師と叫ぶ。
通行人が振り返った。後部座席の電動ウィンドウが静かに下がり、ヴァシリエフが、顔を出した。面長のごつい顔。左手の薬指にはプラチナの結婚指輪。うんざりしたようにリョーハを見る。何もかもに飽き飽きしているといったふうだ。
「そんなことを言ったかね? ドルでやると? 私が君と何か契約書を交わしたかね? 私はビジネスしかしないのだよ。君みたいな何もない青年と、この私が、ビジネスをすると思っているのかい?」
リョーハは取引の仕方を間違ったことを悟る。自分が世間知らずで、無能で、共産主義時代から何の進歩もしていないことを思い知らされる。騙されて、安く使われた。そして、自分の身が危険であることに気づく。
リョーハは、単独殺人犯として逮捕されるかもしれない。マフィアのヴァシリエフは、警察にコネがあるだろう。取り調べ室でリョーハが何を言おうと、ヴァシリエフは安全だ。リョーハを犠牲の山羊にするために、子飼いの部下ではなく、リョーハにやらせたのだ。
「レーダグロフ。確か君はそんな名前だったね。私は人の名前を覚えるのが得意なんだよ。君には君にふさわしいだけの報酬をやった。実際のところ、君はよくやってくれた。だが、君は信用できない。君は夢想家のカメラマンだ。使えない人間だ。もう仕事は頼まない。代わりにこの男を紹介してやろう」
ヴァシリエフは秘書に命じて、メモを書かせる。
「彼は興行主だ。『自称芸術家』たちを飼っている。興味があれば行ってみるといい。ただし、三ヶ月は表に出ないことだな。私は別に、君が逮捕されることを望んでいるわけではない」
BMWは走り去った。リョーハは紙切れを渡された。そこにはイタリア人の名前と電話番号が書かれていた。
リョーハは帰ってくると、札を数え始めた。「三千ルーブルしかない。二ヶ月の生活費にしかならない」
リョーハは札を投げた。青いルーブル紙幣が、床に散らばった。
「ヴァシリエフが僕を騙した。三千ドルのはずだったのに。機材を買おうと思ってたのに」
リョーハは冷たい床に座り込んでいる。「僕はいつもカスばっかり掴まされている。共産党時代も、今も。あんなことまでして、これしか手に入らない」
リョーハが持ってきた拳銃は、テレビの上に放り出されている。「どこかに仕舞ってくれ」アナスターシャは、拳銃を持ち上げ、その重さに驚きながら、キッチンの戸棚の、キャベツやじゃがいもの奥に入れた。
アナスターシャは、リョーハのアクリルのセーターに腕を回す。リョーハは、ガチガチに緊張していた。途切れ途切れに言う。「ごめんね。あんたに、卵くらいの大きさの宝石を買ってあげたかった」
「そんなものいらないよ」
「ニューヨークに行って、映画学校に通って、三十五ミリカメラの使い方を覚えて……、最初の映画は、アナスターシャが主演だ。それで……多分、僕たちは有名になって……美術雑誌と映画雑誌にインタヴューが載る。きっとレオス・カラックスが僕らと会いたがるだろう。家を買って、猫か犬も飼って」
「……いつかそうしましょう」
わたしは自分の言葉を全く信じていなかった。リョーハは泣き出した。「大丈夫よ、リョーハ」
部屋は暗くなっていった。わたしたちは世界の果ての二人の孤児のようだった。リョーハは、わたしの膝に頭を載せ、しゃがれ声で将来の計画を話し続けた。リョーハの灰色の髪が、アナスターシャの、黒く染めた古着のレースのスカートに、枯れ草のように垂れた。
「最新型のマッキントッシュで、コンピュータ・グラフィックスもやってみたい」
アナスターシャはかつて東京の、皇居の側のオフィスで、コンピュータのディスプレイを、三年間、見つめていた。まるっきり彼方の記憶だった。「そうね。何でもできるわ」
「どうして僕らはサンクト・ペテルブルグなんかにいるんだ?」
わたしは人生をサイコロで決めてきたようなものだ。出た目の通り進んでいき、辿り着いた先が、サンクト・ペテルブルグだった。
リョーハは、三ヶ月間外に出なかった。殺人のニュースはたくさん流れていたが、リョーハが手を下したのはどの事件なのか、アナスターシャは訊いていない。
リョーハはテレビを見なくなった。アナスターシャが仕事から帰ってくると、灰皿には吸い殻が大量に突っ込まれ、殴り書きの絵コンテや脚本が散乱していた。ウォッカの空き瓶の横で、リョーハは毛布にくるまり、長い手足を縮め、眠り込んでいた。わたしに気づくと、無言でしがみついた。
copyright: 間瀬純子junko mase
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