リチウムさんのサイト『電気式』に出会ったのは、私が大ファンであるミュージシャン、「ルーク・ハインズ」で検索していたところ、リチウムさんのプロフィールの文「理想の男/ルーク・ハインズ」という箇所にヒットしたからです。
そして、リチウムさんが小説を書いていることを知り、作品を読み、好きになり、私は大喜びして、リンクをお願いしました。
まず、『電気式』のアドレスをいれておきます。http://www.denkishiki.com/「絵とか小説」というコンテンツで作品が読めます。
リチウムさんの作品に繰り返し出てくるモチーフは「死ぬ少女or(たまに少年の時もある)と彼女(彼)のことを忘れない少年」です。大体、少女が死ぬ前後が描かれ、彼女の存在を少年が一生忘れない、ということが決定した時点で物語は終わります。
私がリチウムさんの作品に惹かれたのは、とてもヴィジュアルに白昼夢のようなイメージが呼び起こされることもありますが(あと、大変凝縮されて短いこともいい←ネットで長編読めない人間なもんで)、もっぱらこのモチーフによるところが大きいです。
「死んじゃいたいけど、忘れられたくない」
それのどこがいいのでしょうか。というか、それのどこに私が惹きつけられたのか、考えたくなりました。
「死んじゃいたい」のは、素直に現世拒否と私は受け取ります。
ただその上で「忘れられたくない」のは何でしょうか。
死ぬ側の少女or少年にとっては、死んでしまえば、全ては無になり、何もなくなる。
世界にとっては、たった一人の人間の消失に過ぎないとしても、死ぬ主体にとってみれば、もはや、世界を認識する意識がなくなるのです。その後は、忘れられようと忘れられまいと、死者にとってはまったく無意味なはずだ。それは、死ぬ少女少年もよくわかっているだろうし、作者にも自明のことでしょう。
では、誰かに忘れられない「私」とは一体何なのか。
他人の思い出の中の「私」は、既に、元の「私」ではない。
リチウムさんの作品群において「死」とは、通常の意味での「死」ではないのではないでしょうか。
誰かにとって、忘れられない存在になった「私」は、忘れられないという一点において、存在しています。
それは実は、単に思い出というデータの断片の集まりに過ぎないのですが、そのデータの集まりの「私」は、生前の生臭い生き物としての「私」より、遙かに純化され美しい。
同時に、忘れられない人間として、他人の中に存在し続ける「私」は、「忘れられない側」と極めて密接な関係を結ぶことになります。忘れられない側と、同じ体の中に住み続けられるわけですから。
究極の融合願望。
「スイートワールズエンド〜どこかのだれかの場合」という作品では、世界の終わりに一人で生き残った青年が、目の前で自殺した女性の姿を、ずっと忘れないという設定になっています。
この作品では、世界の終わりの具体的な姿は、描かれていないです。世界の終末をシュミレーションするような類の小説でないことは確か。
何故、この作品で、世界は終わらなければならなかったのか。
理由はいくつか考えられます。
「死んじゃいたい」が現世否定なら、現世なんか滅びるのは当然、という理由/願望。
もう一つの理由は、世界の終わりまで忘れられたくないという、その女性……あるいは作者……の望みでしょう。
そんな願望を二つながら叶えた、この作品の世界の終わりは、当然のように「スイート」なのだった。
気になるのは、忘れられないという立場を引き受けさせられた側のことです。
「プラスチック」という作品の中では、親友に、「持ち物を全部おまえに譲る。俺のことを忘れないように」という遺書をもらった少年が、「彼の持ち物の中で窒息してしまいたい」、と描写されるところで終わっています。
「スイートワールズエンド」の青年は、毎日リストカットをしながら、死んだ女のことを考え続けます。忘れられない側の人間も非常に「死」に近いところにいるわけです。死ぬ側も忘れない側も、似たものどうしなのかも。「死ぬ側」にすれば、共感できる相手とでないと、融合なんかしたくない!
そして、最初に「死んじゃいたい」という望みがあることを思い出してください。相手と融合した後なら、本当に無になってもいいのかもしれません。融合し、消滅することが、リチウムさんの作品の中での、理想なのかもしれません。
そんなややこしいことをせずに最初から一人で死ねばいいようネ気もしますが、……一人で消えるのは、多分、寂しすぎるのです。
01.5.2